サボテン

窓辺のサボテン

わが窓辺にずっと腕立てをしつづけている。暑いときも風の時も、昼も夜もずっとこの格好。元の方はもう枯れかけて1、2年になる。なのにその先はそれ以上枯れることなく斜め上方に伸び続け、やがて重力に耐えられなくなって床に両手を?突いてしまった。大抵はそこから徐々に腐ってくるものだが、端がほんのちょっと枯れ色になっただけで一年以上この状態のままである。

何という種類かは分からないが、珍しいものでないことは確かだ。小さな鉢に5種類ほどのサボテンが寄せ植えになっているのを4、5年前に4、5百円で買った。青々とした奴はちっとも大きくならないが、何故か下半分が枯れかけたようなものだけが成長する。代謝の大きさの差なのだろうか。同じ鉢の中で、写真のサボテンだけが買った年の冬に殆ど枯れかけた。これまでの私の経験では、だいたいそのまま腐っていくのがほとんどだったが、翌年の夏には回復し、しかもわずかながら成長した。冬には再び駄目そうになりながら、次の夏には何と2本に増えた(写真には3本目が見える)。この小さな鉢の中で、これだけダイナミックな動きを見せるのはこいつだけ。

サボテンは案外好きだ。せっせと水をやらなくても済むというお手軽さだけではなく、どうやら棘が好きなのだと比較的最近思うようになった。

子どもの頃、青森県下北半島ではサボテンは非常に珍しかった。私の中ではサボテンは南国のイメージ、暑い岩石砂漠の象徴であった。そのサボテンが小学校の校長先生の官舎(田舎ではそう呼んでいた)の小さな玄関わきに植えて(鉢だったのかもしれない)あったのを、道草の途中で見つけてしまった。

うちわサボテンだったのは間違いない。うちわサボテンの表面には放射状に1センチもある大きく、長い針が数本ずつ固まってついている。その棘の塊と塊の間はつるっとした滑らかな面に見える。子どもはなぜかつるっとしたものに触りたがる。大きな棘の塊に注意しながら、そのつるりと「見える」表面を私は何気なく撫でてしまった。

危険ということのもうひとつ深い意味を、その時はじめて私は知った。つるりと見える部分には注意して見なければ分からないほど微細で、抜けやすい棘が塊ではなく、一面にかなりの頻度で突き立っている。長い針の目立つ危険の陰に、本当の危険が潜んでいることを子どもなりに意識させられた瞬間だ。ひりひりした、繊細な痛さに泣きながら家に帰った記憶は今も強く残っている。

そんなわけでサボテンが天敵のような存在になったのは当然だった。天敵だからうっかり触ったりしないよう、特に注意するようになったのかも知れない。いつの間にか、花が(滅多に)咲かないということも、人の肥育をほとんど要しないことも、厳しい環境に育つことも、人の手を刺すことも(サボテンが意図的に刺しているわけではないが)好ましいと思うようになったのは不思議な気がする。私のへそ曲がりな気性に合っていたのかも知れない、サボテンがへそ曲がりだとは全然思わないけれど。

晨春会展を終えて

歩く男 F6 水彩  2010

前回のブログから10日。会期中に一度書いてはみたが、まとめきれず公開は出来なかった。7月31日晨春会展が無事?終了。大震災があったからなのか、今年はいつもと違う感じが会期中もずっと続いていた。特に目につく変化は無くても、たぶん何かが変わったに違いない。

一つは心の変化。震災は心災でもあった。自分は何をやっているのだ、という情けなさと口惜しさの混じったような気持がずっと続いている。が、それは震災に関わらずもっと以前からだったような気もする。他には自分のやるべきことに選択肢など無いということ。迷っている時間など無いということはよくわかった。よくわかったが、で、今何をと考えると何も無いという絶望的な気分になる。それが会期中ずっと続いていたことの中身だったのだろうか?そうだとしたら、展覧会は自分には何も無いということを確認するだけのために在るようなものではないか。

7月の1ヶ月間毎日お酒を飲んでいた。こんなに毎日飲むのは最近では珍しい。ビール、ワイン、日本酒、焼酎とさまざまなアルコールを、あるときは大量に、あるときはほんの少し、ある時は楽しく、あるときはまるでそれが仇でもあるかのように。そのせいか、1週間ばかりの間、夜になるとふくらはぎから下がパンパンに浮腫んでしまった。指の周りも豚足のように丸々している。指先に力を入れると浮腫みが白く浮かび上がり、血の色が全く無くなった。脚を上げたり、動いたりするようにしたら浮腫まなくはなったが、夜の酒は止めなかった。飲みたいというより飲まなくては、というような気持だった。

8月になったら、急に飲もうという気が薄くなった。展覧会が終わったことと関係があるのかどうか分からない。単に飲み過ぎて飽きてしまっただけなのかもしれないが。晨春会展を終えた時、昨年なら「次作はこうしよう」と思い描いていた。今年は何も考えていない。ただ、目の前にある小さな描きかけを、早く目の前から消してしまいたいと思っているだけ。

 

 

Sさんが亡くなった

少年と犬 F50 テンペラ 1998

Sさんが昨日亡くなった。長い闘病の末だった。元気だった当時のSさんのメインテーマは「犬」。このブログはできるだけ新作を載せながら書くようにしているが、そのようなわけで今回十年以上前の(私のだが)作品を載せることにした。ささやかだが追悼の意を表したい。

Sさんとは大学の公開講座・水彩クラスで初めて知り合った。私とは講師と受講生の関係である。私が講師であったが、教わったのは私の方がはるかに多かったような気がする。彼女の方が年上で人生経験が若干上というだけではなく、それ以上に絵に対する情熱が私よりはるかに凄かったからだ。その情熱は同じクラスのすべての人に留まらず、絵が好きだという人すべてに共感するというような、ある種、凄まじさのようなものが感じられた。当時彼女の影響を受けた人は多い。私もどことなくその情熱に感動し、どこか高揚したような、アドバイスなのか、アジテーションなのか、宣言なのか分からないことを口走っていたような記憶がある。

県展では入選の常連。なぜなら誰にも出来ない技法を編み出していたから、どの審査委員もそのことに一目置いていたからだ。「ああいう絵は絶対に落としてはいけない絵だよな」と、私の受講生とは知らず、私に語った審査員がいる。殆ど毎年賞候補だったが、賞にならないうちに病気になり、出品できなくなった(そのことに私も若干の忸怩たる思いがある。)。

彼女の(今は形見になってしまったが)頑張りを示す、失敗作の断片を頂いてある。その断片を見るだけで、彼女の(努力だろうが、そうは言いたくない)情熱の一片を感じることができる。おそらく、「世界の」水彩史上類例のない技法であることは間違いない。もしも私に、美術界で発言出来る日が来たら、必ず語るべきエピソードであると思っている。

たった一つだけ彼女の小さな勲章がある。埼玉県文展というのがあった(今は無い)。最高賞は労働大臣賞で埼玉県知事賞の上、それを受けたことだ。授賞式前のNHKなど報道機関のインタビューを受けている時、彼女は記念に私と一緒に写真に収まりたいと言った。私は私の指導など無関係に、受賞は彼女一人の努力の結実だと思い、それを汚すまいとして一緒に写真に収まるのを断った。それに、そんな賞など単なる「初めの一歩」に過ぎない、凄いのはこれからだぞ、という指導者としての内心の傲慢さがあった。それが彼女が病気になってから一番の後悔である。私に謙虚な心が無かった辛いエピソードだ。心からご冥福を祈ります。2011/7/21