occupied japan

occupied japan

車で近くの農業産品を主にしたマーケットへ、講座用の冬瓜か何か、静物のモチーフに使えるものが無いかと出かけてみた。

外にいくつか出店があり、最初に(ガラクタ)アンティーク風の店があった。特にいいものだと思ったわけではないが、何となく目にとまったものがコレ。高さ10cm程の小さな陶製品で、同じようなものが他に2個あり、ほんの数分だが眺めていると店の人が話しかけてきた。話しを聞くとつい流れで買ってしまうのでちょっと警戒したが、絶対買う気はないぞと心に言い聞かせて、話を聞くことにした。

made in occupied japanと裏に刻印があるのは、昭和22年から27年までの5年間、占領下の日本として、つまり日本と言う国が失われていた期間だけ、輸出用の製品に表示することが義務付けられていたことを示している(ウィキペディア)。昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ平和条約が日本と占領国との間で発効するが、この時から日本は主権を回復し、made in Japanと表示できることになったのだそうだ。これはすなわち日本がたった一度だけ日本でなくなった時期の輸出品で、それが今度は再びアンティークとして日本に里帰りしたものなのだ。出来自体は大したモノはないのだが、5年間という限定があるので、それなりのコレクターがアメリカにはいるらしい。

そう聞いてしまったら、絵のイメージがふっと湧いてしまった。これはマズイ!と値段を聞くと安くしますと言う。ますますマズイ!結局3個とも買ってしまった。でももともとの1個分の値段で3個買ったのだから得した気になった。妻は「原価はいくらだろうね。さっと下げたのだから、きっともう一声下がったと思うよ」と残念そうだったが、私はもう返事をする気にならなかった。 2011/9/11

ジャイロスコープ

ジャイロスコープ(船の科学館)

船の美しさ、続編。写真は船の航行には必須のジャイロスコープ、羅針盤と言えば分かりすい(青い色はそれを覗きこんでいる私のシャツの色)だろうか。これは実際に遠洋航海で使われていた船を解体した際、保存されたもの。全くの実用品だが実に美しいではないか?

今では死語になりかかっているが、私の学生の頃は実用の美とか機能美という語がまだあった。美そのものを目的とした美術品と違い、純粋に機能性、実用性を目指した器具が、結果的に不要なものをそぎ落とした美しさを獲得するという意味の語である。

誰が言い出したのかは忘れてしまったが、それらの語には装飾あるいは余裕(過分?)に対する嫌悪感がこっそり隠されていると私は感じていた。肉や脂肪の持つ肉感性、官能性に対して骨の白々とした、質素な美しさを好む志向だと言う方が分かりやすいかも知れない。私などはそうした美学に共感しつつも、「不要な物」という、その独善的な物言いに多少の反発も同時に感じたものだった。

このジャイロスコープを見てそんなことを思い出した。ジャイロスコープは美しくなくても使い易ければそれでいい。このジャイロスコープもその方針で作られたものに違いない。その意味では「骨」的志向と言えるだろう。ダイヤ形の印しも見やすさを考慮したものだ。けれどこの大きさはこれよりほんの少しサイズが大きかったり、色がほんの少し薄かったり黒味がかったりしても実用性に問題は無い。それなのにこれをジャストとしたことには設計者、制作者の美学が入り込まざるを得ない。これは「骨的な志向」ではなく、「肉」的な志向ではないか。そぎ落としていくだけでは本当の美は生まれ得ないのではないか。そんな風に当時も感じていたのだった。

ともかく船の内部、器具、用品にはなぜか美しいものが多い。自動車でも、飛行機でも事情は変わらないようなものだが、美しさという点では格段に落ちる気がする(多くは私の偏見だろうが)。その違いの一つは「重さ」から来るのではないかと私は睨んでいる。

船の備品は飛行機や車に較べ総じて重く、大きく、武骨である。揺れる船上での扱いがそれを要求するのだろうが、それが人間の感覚にどっしりした安心感や親しみを与えるのではないかと感じている。設計、制作に携わる人々にもそれは共有され、だから船という一つの美しい体系が出来上がっていくのではないかと思っている。2011/9/10

 

やはり船はいい

南極観測船「宗谷」ブリッジから(お台場・船の科学館)

久しぶりに少しだけ海を見た気がする。半月ほど前に下北へ行った時も海岸線を車で走り、海は毎日見ていたのだが全然そんな気がしなかった。父のクモ膜下のことでそんな余裕も無かった。いくらか自分の気持ちも落ち着いてきたのでスケッチに行くことにした。

場所は今後のスケッチ会の下見も兼ねて東京に決めていた。船の科学館が今月一杯で再開未定の休館になるというのでこれをメインに、時間的に可能ならばスケッチするというつもりで出かけた。

写真はそこに係留、一般公開されている南極観測船「宗谷」のブリッジからの眺め。正面に向き合っているのは水産庁の船(東光丸)。その奥に広がるのは東京港への水路だろう。対岸にはコンテナとコンテナ船がびっしり。荷役用のリフトがニョキニョキ立っている。こんな風景は宗谷にはふさわしくないだろうが仕方ない。おかげで子どもの頃に本で見た記憶のある(テレビの映像の記憶かもしれない)船を実際に見ることができたのだから。

しかし、記録を見ると宗谷はもともと旧ソ連に貨物船として発注されたもので、国際情勢の変化で民間の小型貨物船「地領丸」として1938年に就航した船だから、むしろ本来あるべき風景の中に戻ったと言うべきかもしれない。

地領丸はその後すぐに海軍特務艦になり「宗谷」と改名。測量、輸送の任務に就く。戦後は引揚げ船、海上保安庁の燈台補給船として使われた後、1956年に南極観測船に転用された。その時点でも既にかなりのボロ船だ。そのいきさつも面白いが、このたかだか2700トン程度の(本当に)ちっぽけなボロ船を実際に見ると、これを初体験の国際南極観測船として送り出した、このニッポンという国のおかしみと哀しみを感じざるを得ない。戦後間もないとはいえ、ほとんど特攻隊そのままではないか。一方で、隊員たちの弾けるような好奇心と若さがそれを乗り越えたことに、今も大きな共感を感じることができる。

南極観測は極寒の銀世界のイメージしか私たちには浮かばないが、実は途中で赤道を通り過ぎるわけで、その猛暑対策が大変だったらしい。初めにソ連の氷洋貨物船として建造された経緯からも、暑さに対しては全く考慮されていない船だったことが分かる。そこに同乗させられたソリ引き用の、毛むくじゃらのカラフト犬など、よく死なさずに南極まで連れて行けたものだと思う。タロ、ジロの本当の苦しさは、実は南極よりインド洋にあったのではないかと想像した。

船は形も美しいが、その歴史にも何とも言えない深い(人間的な)味わいがある。沈んだり、解体された後まで人が船に引き付けられるのは、そこに小説のような魅力があるからかもしれない。