大学構内をスケッチ中 2021/4/03

宮本常一(つねいち)著「忘れられた日本人」を三十数年ぶりに読みかえした。宮本常一は民俗学者で、柳田国男とはまた別の、人によっては「宮本民俗学」という言い方をする、「旅」をしながら研究資料を自分の足で掘り出していく独自の民俗学を開いた人である。

読んでいると、モノの環境は変わっても日本人の生きざまのようなものが今も底流でつながっているのを感じる。そこには昨今特に声高な、「愛国心」とか「日本人らしさ」などと一言では表し得ない、複雑で、ある意味かえって現代的ともいえる心情がある。名著だ、と思う。民俗学などに興味がない人にもぜひ読まれるべき本だと思う。

彼は病弱であったが、一生を旅し続け、人々の間に座り込んで彼らの物語を聞き続け、それを記録し続けた。ひなびた農家に泊めてもらい、時には乞食の話を聞きにわざわざ橋の下まで出かけている(その記録自体も名文だ)。現代の都会人が「放浪してきた」とカッコよく言うのと根本的に違う泥臭い学者魂と、彼がその父や祖父から受けついだ、人々の暮らしと心への共感が彼の旅を支え続けたのだろう。

春になったが、コロナは浅はかなリーダーどもを振り回し、もうひと暴れも二暴れもする勢い。GO TOなどと能天気なキャンペーンに乗るほどバカでない人は、むしろ折角の自粛だ、本の旅もいいではないか。

「聖火リレー」という茶番

一年遅れの東京オリンピック・パラリンピックのためのキャンペーン「聖火リレー」が福島県のJヴィレッジから始まった。福島県から始めたのは、「復興五輪」を掲げた安部前政権が、原発の影響はすべて Under Control だということを内外にアピールするためだ(実際は10年たった今も、デブリを取り出すめどさえ立たないのだが)。

福島県での「聖火リレー」イベントの映像をインターネット上で見た。先頭はコカ・コーラ社のどでかいバス。その後ろに次から次へとスポンサー企業のバスなどが累々と車列をなし、赤い服を着た社員だかボランティアだかが沿道に両手を振って走り回り、立ち並び拍手を送る人たちにペットボトルなどを配りまわる。肝心のランナーがどこにいるのか皆目わからない。いったいこの「単なるバカ騒ぎ」はなんなのだろう。なぜこういうことになってしまうのか。なぜNHKはじめ大手報道機関はこれをありのまま報道しないのだろうか。

理由は一つしかない。オリンピック・パラリンピックは選手やスポーツを愛する人々のためなどではなく、ましてや「コロナを克服した証」などのためでは全くなく、すべてはスポンサーとIOC関係者の利益のためだからである。国民の半分以上が現時点での五輪開催を疑問視あるいは反対し、いくつかの国がコロナ下での開催は選手の健康のためにならないと参加を取りやめているなか、ごり押しともいえる「聖火リレー」の出発と、スポンサー企業のこの限りなくあさましいだけのイベントぶり。「最低でも宣伝費のもとをとりたい」スポンサー企業側の意識、莫大な放映権料を何がなんでも手に入れたいIOCの本音があからさまに現れている。

「聖火」という美しい響きを地に落とし、さらに二重三重に踏みつけるこの醜いイベントは、この上なくスポーツを冒涜する行為だといっていい。それを率先してIOCが旗を振るとは、IOC自体の哲学的自殺行為に他ならない。まあ、そんな哲学など宣伝効果以外に意味はないと悟りきっているのだろう。一番の被害者は選手たちだ。組織委員会とスポンサー、国民とのはざまで、ほとんど本音を言えない状況にあると思う。「聖火」という語は選手にあってこそふさわしい。カネ亡者どもに使わせてはならない。「聖火リレー」ではなく、せいぜい「オリンピック協賛宣伝リレー」のような呼称にすべきだ。そういう状況下で、わたしたちが東京五輪をすなおに楽しむには、自分の脳みそを一度泥水にでも捨ててみるしかない。

「自分磨き」ということば

制作中。これからどうしよう?

「自分磨き」という言葉がコロナ禍下でよく聞かれるようになった。テレワーク(会社と自宅のそれぞれのパソコンをオンラインで結んで仕事すること)などで通勤などの拘束時間が減り、自分のスキルアップのための時間ができたこと。大学生などでは遠隔授業(本来ならこれもテレワークなのだが、なぜかこちらは日本語だ)で、授業時間を自分の裁量で自由にできるようになり、こちらもダブルスクールなどで資格を取ったり、趣味に時間を割くなどできる環境になったことで、自分をブラッシュアップすることを意味する。

インターネット上で見たのは女子大学生の「シェイプアップ」。人気のユーチューバーなのだそうだが、これなど一石二鳥どころか三鳥、四鳥にもなっていそうだ。

けれど、(すべてにおいてそうなのだが)視点がどこにあるかがいつも気になる。スキルアップも会社での仕事のためだったりする。会社の中での仕事をスムーズに回せば地位向上には役立つだろうから、確かに自分のためと言えないことはない。でも、もしその会社を辞めた時に他では役立たないものなら、そのスキルアップは結局は会社のためのものではないだろうか。自分100%に思えるシェイプアップも、美的な基準がどこにあり、なぜそうなりたいのかを考えないと、マニアックなダイエットや筋トレの虜になりかねない。

わたしはどうだろう。コロナ後?に使えるようにパソコンやiPad などにたくさんのアプリをいれ、かなりの時間を割いて使い方の練習をしている。けれど、パソコンが使えなければ絵は描けないのだろうか。iPad などは確かに便利さを感じるが、逆にそれで失うものもあるのではないか。一見するとパソコンができないと困る社会になりつつあるように見えるが、それが「常識」と自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。「自分磨き」が「自分すり減らし」にならないよう、よくよく考えなくてはならない。