この世は知らないことだらけ

木立ベゴニアの制作 2021 F60 アキーラ

知らないことが多すぎる。いや、もう少し丁寧に言おう。自分にとって必要なことさえ知らなすぎる、である。

ある(アメリカの、だったか)科学者が、人間が一つの新しいことを成し遂げるには200歳以上生きる必要がある、と言ったのを覚えている。人類の、これまでの知識を自分のバックグラウンドとして身につけるまでに最低120歳、先端知識を身につけ、経験するのに50年、研究し、結果を出すのに最低30年とか。区分けはこの通りでなかったかも知れないが、とにかく人生100年じゃ短すぎて何もやる時間がない。だからとりあえず人間を200歳まで生きられるための研究をしている、という話だった。

Youtube に「青いカモメの絵画教室」というチャンネルを作ったよ(9月7日)。できれば皆さんに見てもらい、いろいろ意見を聞いて内容を充実させていきたいので、まずは見てください。気分悪くなければチャンネル登録してね。新しい動画を載せた時知らせが届くらしいから、よろしく。―ちょっと脱線したが、このコマ送り動画(GIF画像)、じつは動画ではなく、「画像」扱いだということを今日知った。これまでも何度か(GIF画像を)載せているのに気がつかなかった。こんなふうに、現にやっていることの意味さえ「知らない」のだから、もう少し距離感のある事柄なら、ほぼ「無知」に等しいだろう、と恐懼する。

目下、コンピューターでは「機械学習」というのが大きな研究テーマになっている。成功、失敗のデータを分析、学習して、つねに正しい選択ができるようにしようというもので、将棋の藤井壮太君が使っている将棋ソフトもそうしたものの一つだ。だが、「試行錯誤」そのものに「愉しみ」を見出す、わたしのようなひねくれものをどう扱ったらいいのか知るために、あんがい生きた実験動物として役に立っているのかも知れません。

腱鞘炎

最近、腱鞘炎が頻繁だ。そんなに手指を酷使している、つまり「お仕事」しているのかと思われそうだが、実はその逆。だから、なぜ頻繁に腱鞘炎になるのか、不思議だった。

腱鞘炎といえばピアニストと連想する人が多いらしい。わたしも実はそう思いこんでいた一人なのだが、ピアニストを含む音楽家の整形外科的な手の病気を見ると、腱鞘炎は全体の1/3なのだそうだ。意外に少ない気がするが、内容をみると手(腕)の筋肉の使い過ぎによる筋炎(筋肉痛)、筋肉の骨への付着部の炎症(付着部炎)の3つで全体の70%だが、そもそも腱鞘自体が身体のごく一部にしか存在しないことを考えると、やはり噂は正しかったと言えそうだ。

身体を動かすということは、骨が動くことでもある。その骨を動かすのは筋肉。骨にくっついた筋肉が縮んだ伸びたりすることで、骨の位置を変える=身体の動きを作り出す。骨にくっついた筋肉の一部が繊維状の「腱」になっているところもある。手足の指など繊細な動きをするところでは、「腱」が特別なポイントを通過する必要がある。そのポイントが鞘(トンネル)のようになっていて、腱の「脱線」を防いでいる。けれど、なんらかの原因でその鞘が腫れたりすると、そこを通る腱と擦れてしまうことになる。それが腱鞘炎。

腱が頻繁に鞘を出入りすれば擦れる機会も増える。とうぜん腱鞘炎も増える。ピアニストの例はその典型である。けれど、そうした機会が減ったのに腱鞘炎が増えたのはなぜか。つまり腱、鞘のどちらか、または両方がなぜ腫れたのかということだ。人間の身体は、そのおおよその仕組みは分っているようだが、すべて解っているわけではない―休ませ過ぎもあるかもしれない・・・。「たまには仕事をしろよ」そう言われているような気がする。でも、腱鞘炎になってから仕事をするってのもいかがなものか、なんてね。

気になる絵

矢本政行「ホール」2021 行動展

行動美術協会に所属する矢本さんの絵を、少なくとも10年以上、興味と尊敬をもって拝見しています。これは今年2021年9月の行動展で発表された矢本さんの作品です。一度お会いしたいと思っていますが、まだお会いしたことはありません。

一見で、この人はヒエロニムス・ボスとかブリューゲルに強い共感を持つ画家だろうな、と皆さんが感じると思います。一つはその色彩です。もうひとつはかたちの崩し方に対する好みです。この2つが一致する画家はたくさんいそうに思えますが、実は意外に少なく、ボスやブリューゲル系の画家に絞られてしまいます。

でも、そんなことはどうでもいいのです。この絵から感じられるのは、「世の中は厳しい」というリアルなメッセージです。同心円、中央が凹んでいるという構図が「歯車のように、正確で情け容赦のない」現実の状況を象徴しています。まるで「奴隷制度」の図式化のようだと、わたしには思えます。

そんな楽しくない状況を想像しながら、色彩のストイックな美しささに引きずられて、一歩二歩絵に近づいてみると、たぶん数百人はいる登場人物の、その一人一人はどれもものぐさで(時にはパンツまでずり落ちていたり)、自堕落なポーズをしています。これを「(かすかに奪い取った)自由」と見るか、「(諦めのなかの)自由」と見るかはその人第ですが、色彩他の全体構成から考えても、アメリカ的、楽天的な自由感だけはきっぱりと排除していると思います。「自分が自由だと思っているアナタ」へ、あなたの自由は本当はこんなものかもしれないぜ、それでもいいのかい、という自問を迫る絵だとも感じるのです。