年末になって

昨日8:00予約公開でアップロードしました。年内に間に合って良かった。タイミングとしては1ヶ月くらい遅かったが、仕方ない。天気予報で大雪のことを聞くようになってから思いついたんだから。その前に、クリスマス用の動画をぐずぐずと考えてばかりいた。

まあまあそれなりの内容にはなったような気がするけど、YouTube的には内容などどうでもよく、視聴回数、時間さえ取れればいい。が、視聴する側としては逆に視聴率など関係ない。クリエイターはその両方を見なければいけない。三者三葉の立場。

時どき、年賀状のアイデアを作っている(今更だけど)。一度作って、数枚プリントもしてみたがどうも気にいらない。そうこうしているうちに大晦日も近づき、年賀状を出すこと自体できるかどうか、という状況になっている。わが家では、年賀状を出しているのはわたしだけ。家族はもうやめた。

時代の流れと言ってしまえばそれまでだけど、不器用な自分としては流れに乗ることなど到底無理で、できればどこかの岸に身を寄せて(流れ着いて)、流れを傍観できるなら望外の幸せ、という心境だ。でも、おそらくすでになす術もなく流れの中で砕け散り、うたかたの泡と消える直前に生きているだけなのに違いない。心残りなど限りなくあるが、それもまた水滴の中の塵芥に過ぎまい。

日の温み

関東地方の一部、わたしの住んでいるあたりはここのところずっと晴天が続いている。たまに強い風もあるが、飛ばされるほどのこともない。まあまあ、穏やかな年の瀬だと言っていいだろう。

地球の人口は2024年で81億人を越えている。プランクトンとかハエとかそういうものを除けば(いや、ハエより多いかもしれない)、いわゆる動物の中で、人類ほど多くいるものは他にない。

食料とエネルギーを他の動物から奪い消費するだけでなく、知識を使い、加工して新たな資源として利用することができたからだ。しかし、一人の人間が100年も200年も生きてはいられないように、あらゆるものには限界がある。地球上の陸地の上にたとえ500億人が立つことができたとしても、立っているだけでは人は生きられない。木も草もなく、鳥さえいない地平線の向こうまでぎっしりの人間が、坐ることさえできずにただ立っているだけでは、それはもう「繁栄」という名の、地獄と呼ぶしかない地球の姿だ。

もちろんそうはならない。そこまでいかないうちに、人類は殺し合って半減するはずだからである。地球の平和は、人類が滅びることでしか生まれない―そんな妄想さえ浮かぶ年の瀬でもある。穏やかで温かい日差し。それは誰にも公平に分け与えられている、と思うのは浅い夢に過ぎない。多くの場合奪いとり、奪われるものとして、人類は生きてきたのだった。
 この子も、食料とエネルギーと平穏を奪い取られないように、ずっと思案を巡らしているのかもしれませんよ。

「欠けたもの」のある美しさ

よく聞くことだが、(現場での)スケッチが一番良く、習作を重ねるごとに悪くなって、最後の完成作が一番面白くない、という話。半分は事実だろう。時間はスケッチが一番短く、完成作が一番長くかかっているのが普通。時間をかければいいものが出来るとは限らない。

なぜ、限られた時間、空間の中で描かれたスケッチが、よく構想も練られ、必要十分な画材とたっぷりの時間をかけて描かれた作品より魅力があったりするのだろうか。

わたしの感覚では、それは現場での直感的な反応も含め、「未完成の力」ではないか、と思う。「未完成の音楽」というのが魅力的かどうかは分からないが、絵や彫刻ならあり得る。半分しか描かれていない、あるいは部分的にしか塗られていない絵が、えもいわれぬ光を放っているのを、きっと多くの人も経験しているに違いない。彫刻もそう。ミケランジェロの荒削りの「奴隷像」、円空仏、未完成とはちょっと違うが、「両腕の欠けた」ミロのビーナス。「欠けたものがある」こと自体がその源泉である。あるいはその「欠け方」が美しいのだろうか。

反対に「行き過ぎた魅力」もある。たとえば「バロック」。たとえば(盛りを過ぎた)「剥落の美」。「源氏物語」、その現存の絵巻の絵など。バロックでは「節度」が欠け、(現存)源氏物語絵巻では「力・Power」が欠けている。たしか日本民芸運動の主唱者であった柳宗悦(やなぎむねよし)が、「茶碗の欠けた一片が、整った完成作より美しいことがある」と言っていたような気がする。