できることから

「できることから」と聞けば、ほぼ自動的に「始めなさい」と心の中で続きの文言が浮かんでしまう。日本の小学校に入学した経験のある人ならば、つまり日本人の「ほぼ」全員が耳タコのアレ。でも、入学以後は、ほぼあらゆることについて、「どこまで行くのか」のゴールは自分で決めなくてはならない。それが、どれも意外と重いのである。

“推奨される” 多くの考え方では、最初にゴールを設定するらしい。例えば「パソコンを使いこなせるようになりたい」。できること(スタート)は「まず、パソコンを買う」。一見普通に見えますが、これって、「ゴール」も「スタート」も、とんでもなくハードルが高くないですか?「設定」すること自体、ハードルが高いんです。

パソコンを買う前だから、使いこなせるかどうか解らないのが前提だけれど、「使いこなす」なんて到底無理だし、どんなパソコンをどこで買ったらいいか、見当もつかないのが普通じゃないですか?「パソコンを買う」もいきなりじゃ、ハードルが高過ぎるでしょ。どんなに安くたって、数万~数十万円はする買い物なんだよ。
 せいぜい、ゴールを「パソコンについて、いろいろ知る」程度まで下げる。スタートは「どこから知識を仕入れるか、を知る」。パソコンになじみのない人にとっては、これだって、十分ゴールになり得るほどなんですよね。

とりあえず、子どもや孫に聞くとか、使っている知人に聞くかする。自分で調べられる人は、すでにかなりパソコンの知識がある人だ。絵も同じだし、たぶん、他の多くでも似たようなものでしょう。
 で、絵のゴールは?「(自由自在に)自分を表現できるようになりたい」。これって、ハードルがとんでもなく高くないですか?それでも「パソコンを使いこなす」よりはまだハードルが低くなった気がするけど。だから、相対的に「絵についていろいろ知る」程度まで「下げ」てもいいんじゃないか。現実には、「下げる」と言っていいのかどうかさえ「微妙」。「いろいろ知る」の「いろいろ」だって、案外深いよ、きっと。

わたしとコンピューター

新年と言えば「春」。春と言えば「桜」。桜にチャレンジしてみる

わたしはYouTubeをやっている。Twitterもやっているし、このようにブログも書いている。だから、(わたしが)SNSに詳しく、コンピューターは得意だろうと思っている人も、中には居るかもしれない。もし、そう思われているとしたら、とても恥ずかしすぎる。
 たとえば、YouTubeをやってはいても、自分がアップできる方法1個しか知らない。チャンネルをどう運営し、どんな工夫をして、どういう方向へ行くのかなど、皆目見当もつかない有様。とりあえず、アップロード出来ているのが、我ながら不思議な気がするほど、知識も経験も(まる2年になるというのに)、たぶん能力も全く足りない。

わたしはコンピューターが嫌いである。やらずに済むならやりたくないとさえ思う。けれど、コンピューター無しでは何一つできなくなった、というより、コンピューターのおかげで、何とかこの社会の中で生きていられる、と言っても過言ではない。が、嫌いなものは嫌い。そういう心理が働くからだろう、なかなか新しい概念や、ソフト、アプリなどに、気軽に手が出ない。常に後ろ向きで、追い詰められて、仕方なく始めるというのが実情である。

しかし、パソコンをまったく使わなくなるという選択肢は、あり得ない。パソコンは極めて有用な道具であるだけでなく、単なる道具を越えた、自分を開く(開発する、開放する)ことのできるゲームチェンジャーでもある、などと謂われているが、わたしもそう思う。下肢を失った人が、せっかく手に入れた車椅子、という移動手段を手放せないのと同じだと思う。それは単なる「移動手段」を越えて、その人の世界を変える力を持つはずだから(例が不適切かな?)。
 同時に、パソコンによって失う代償も小さくない。“自分を開く” と書いたが、一方でずいぶん自分を小さく感じるようにもなった。毎日、“こんなこともできないのか” と自分を呪わない日は、実際に一日もない。毎日毎日、自分の低能力さを思い知らされる。自己肯定感が以前の10分の1もない。要するに、コンピューターを知る前より、「ハッピーにはなっていない」。関連するが、人生において残り少なくなってきた時間を、ソフトやアプリの操作法習得などに奪われる時間の大きさにも、我慢ならないものがある。

それでも、コンピューターを使っているのは自分であり、もっと使えるようになれば、もっと自分の世界が広がるだろうという、期待感はゼロではない(萎んだり、膨らんだり、だ)。どんなに生成AIが発展し、世の中がそれに支配されようとも(今のままなら、早晩そうなるだろう)、それがわたしに置き換わるなどということはあり得ない、と考えている。
 AIは、(それが、どんなに感情を持ったかのように見えようと)データと統計による「推論」、いわば「想定内」に過ぎない。わたしは生身であり、日常=「想定外」であるし(全く同じ日、時間が二度とないという意味において)、わたしにとっては(わたし自身が)「事実」そのものである。「老化」という痛みを伴う弱点も持つけれど、「感じることができる」のは神経、細胞を持った生身であればこそ。「感じること」と「自分を解放・表現すること」とを結びつけること。そのとき、コンピューター以上の道具はたぶん見つからない。それが、(今のところ)わたしがパソコンを手放さない理由です。

“適当な” 絵・自由な絵

「向こう向きのデコイとフジツボ」水彩 2024.01.11

久しぶりに、自由なモチーフで、“適当に” 描いてみた。ここしばらく、YouTube用の水彩か、出品用の作品しか、描いていなかったような気がする。こういう「描いてみただけ」というのが本当は楽しいんだよね。

うまく描いて当たり前とか、うまく描かないと恥ずかしい、なんて思いこんでいると、ろくなことはない。楽しくないどころか、ストレスだ。絵を描くことは、本当は「ストレス解消」であってほしい。多くの画家たちにとって、半分はストレス解消になっているはずだが、半分はストレスにもなっているはずだ。なんにしても、“ねばならぬ” はよくない。

ある量を所要時間で割れば、単位時間当たりの「時間効率」が出る。一日に3枚絵を描けば、1枚しか描けない日の、3倍効率がいいことになりそうだが、それがバカバカしい計算であることは子どもでも分かる。一枚一枚の絵(の価値または意味)は、それぞれに異なっていて、それを測る基準・指標もまた、個人的なものだから。

絵を描くことは、やっぱり、どこかで子どもに還ることじゃないだろうか。それが心のふるさと、ではないのかな。世の中ますます生きづらくなっている。自殺する人も増えている。事故、災害も多い。そのうえ至る所で戦争まで起こしやがって。絵を描くことは、平和だ。平和になることだ。そのうえ、(少しの間でも)自由にもなれる。“適当に” 絵を描こうよ。