絵画の原点

アメリカ芙蓉

絵画の原点。大げさなタイトルのようにも見えるが、私には次第にハッキリしてきた、と思う。

絵画の「原点」はある意味、時代とともに動いてきた。だから、ここでいう原点とは、「現代において」である。とはいえ、人間の歴史が途切れることなく続いてきたように、歴史的な「原点」も現代の原点に繋がっていることは当然だ。

「自由に描くこと」。それが原点であり、それが最終的な「理想」である。それを忘れないこと。多くの作家がいて、それぞれ自由に好きなものを好きなように描いている。全ての画家が理想を達成、謳歌しているように見える。が、それは本人を含めて、殆どの場合、「錯覚」である。「自由に描く」ことと、好きなように描くのとは次元が違うことに気づいていないからだ。(この項続きます)

サムライジャパンの選択–2

難しい選択だな、と思ったのは西野監督の「1点差の負けは容認。イエローカードは厳禁」という判断のタイミング。おそらく、勝ちに行けるだけの体力が残っていない、という判断が根底にあったのではないか、と私は想像する。

前半は押し気味だった。勝つためには絶対に先取点が欲しかったから、かなり鋭い攻撃が何度もあった。けれど、ポッと気が抜けた途端に失点。監督は暑さと疲れを選手に感じたのではないか。これを引きずったまま強引に同点、逆転を狙えば、むしろカウンターを食って2点差になる可能性の方が大きいと感じたのではないか。

さらにコロンビア-セネガル戦が「同時進行」だったことが決定的に重要だった。コロンビアとセネガルの実力、残り時間を勘案し、「統計的判断」で「コロンビアの1点差勝ち」に「賭けた」。もし、コロンビア-セネガル戦が何かの都合で、試合開始が30分遅れてスタートしていたら…。

フェアプレー云々の話は別として、西野監督の「確率・統計的」サッカー観は新たな興味を抱かせる。ハリルホリッジ監督を開幕直前に解任、日本人監督として最多の勝利数を誇る監督を据えたこと自体、西野氏がサッカー協会にもたらしたサッカー観なのかもしれない、とも思う。

サムライ・ジャパンの選択

かもめ(習作)

日本-ポーランド戦、1-2の日本の負けだが、勝ってもポーランドは一次リーグ敗退決定済み、破れた日本は負け方次第で決勝トーナメント進出という、特に後半はそうした戦略が前面に出た試合となった。このような展開はあらかじめ想定されてはいたが、それでも最後の10分間に関しては、サッカーファンの心理を2分したに違いない。

スポーツマンシップを第一とする世界中のマスコミからは「もうサムライとは呼べない」「最も見たくない試合」などと酷評。一方、結果を重視するファンからは「これも戦略だから当然」「他のチームも主力を休ませている」などの擁護論。どちらか一方だけが正しいと簡単には言えないが、チームは監督のものだという感を深くした。

もしこれで、次のベルギー戦で素晴らしい勝利を収めたならば、西野監督の決断は「最良」のものとなり、この試合の胸くそ悪さはファンの心から消え去るだろう。要するに「結果論」、と女子Wcupで優勝したなでしこメンバーの一人は語っている。

なでしこも準々決勝で似たような試合をし、それが優勝につながり、あの日本中のフィーバーになった。けれど「結果が全て」ということは、「フェアプレー精神」は不要だということになりかねない。勝ちさえすればいい、というのはサムライ精神に反する、と思う。けれど一方で、無意味な「玉砕戦法」もまた、見たくはない。