ガダ

ガダ(ギンポ=銀宝) 美味

「ガダ、突いたことあるか」と突然、母が私に訊いてきた。「ない。捕まえたことも、食べたこともあるが、夜突きに行ったことはない」と答えると、「あれはうめぇ(美味い)もんだ」という。母は娘のころ母の妹と、親類の人に連れられて、何度か夜突きに行ったことがあるらしい。潮の引いた夜、磯をかき回して魚を追い出すカギ爪のついた棒と、足下を照らすアセチレンランプとを持って、細い二股のヤス(銛)でガダを突くのがガダ漁だ。今の小学高学年〜中学生くらいの女の子が夜の磯で、遊び半分キャーキャー騒ぎながら銛で魚を突いている図は漫画になりそうだ。もちろん、普通は女性の漁ではない。好奇心旺盛だった母らしい、良いエピソードだ。

ガダとは、ウナギとかウツボを、縦に押しつぶして小型化(幅5cm.長さ30cmくらい)したような魚の地元名。標準和名は「ギンポ(銀宝)」。北海道南部から九州北部、長崎県あたりまでの、磯まわりに棲む。いったん乾燥してから、さっと炙ったり、煮付け、昆布巻きの芯にして食べると非常に美味。大量に捕獲できないため、都会の市場で見かけることはほぼ無い。

寝たきりだが、記憶力はよく、痴呆はあまり進んでいない。会話も(入れ歯を外している、少し耳が遠いのと、方言とで聞き取れないこともあるが)問題ない。点滴だけで既に8ヵ月。元気なうちに話を聞くのが、私のミッションだと考えている。

暑さの記録だ

今日も当地の予報では最高気温38°だって。ウンザリを通り過ぎて、形容詞の不足を感じる。少しは暑さに慣れようと、クーラーを使わずに汗をかいていると、「クーラーを使って、熱中症にならないように」と防災放送が流れてくる。

我が窓辺の植物にも「日除け」した。全員暑いのが好きな植物たちだが、さすがに今年は「焼けた」。あやうく、「多肉植物の干物」を作るところだった。

アトリエでラジオをつけると高校野球。「甲子園」だ。でも、なぜ、誰に対して、あんな「超・健全」過ぎる選手宣誓をするのか、いつも疑問。考えると頭が熱くなるからやめる。

ゲームなんだから、楽しくやりゃーいいじゃねーの?と思う。地元の応援や、それに対する感謝の気持も理解できるが、そんなの忘れて、やりゃーいいんじゃねーの?何かといえば「感謝」の言葉を言わせたがるマスコミの人、君たちかなり変だよ?

温暖化で、頼りとする海氷が消え、狩りができずに餓死するホッキョクグマの写真を載せようと思ったが、やめた。自分がクーラーをつけた部屋の中にいて、地球温暖化を単純に批判するのも、「ちょっと待って、もう少し考えよう」と思う。

絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)