くだらないが貴重な一日

制作中

数年に一度くらい、やや大きな風邪を引く。どうやらそれが今回。それほど悪くならないうちに、別の薬を貰いに行くついでに、かかりつけのクリニックに行った。

火曜日午前9時、「最低2時間は待ちます」で、すぐ帰宅。少し雑用をして戻ったが、それからさらに1時間。薬局で薬を頂いて帰る頃には病状は悪化し始めていた。元気な人しか病院には行けないという、ブラック・ジョークそのまま。そのあと一直線に悪化。既に薬を貰ってきていたのが不幸中の幸い。そうそう、その夜通夜があり、坊さんの長く、くだらなく、下手くそな話を聞かされたのも良くなかった。そのせいで数珠も無くしてしまった。百円ショップで買ったにしては結構良く見えたのに。葬儀に数珠など持っていくものじゃないと反省。

とにかくその夜から、どこか切れているのではと、思うほどの喉の痛みと咳、鼻水。熱は平熱+1.5°。やっと今朝(木曜)普通に目が覚めたが、起きてからも何となくボンヤリ。それも普通といえば普通なのかも知れないが。用事はこんもりと山になっている。出かける用事もあるが、全て後回しに。こんな日もあるなーと考えれば、これも貴重な一日。

靖國神社

売店にて
「晋ちゃんまんじゅう」その他

午後から急いで、東京・九段のイタリア文化会館へRobert Bosisio の絵を見に行った。とても質の高い良い作品だったが、たった4点しかない。画集が2冊置いてあり、それを見ても全体で30分もあれば十分。画集を売っていないかと聞いても、「見るだけ」とそっけない。じっくり目に焼き付けて帰る。

九段坂上の角まで来ると靖國神社が正面。一度も見たことがないので、せっかくだからと入ってみた。以外に若い女性が多いのにちょっと驚く。中に入っても、習い事とか何かあるのか、連れ立ってそれなりにきちんとした身なりの女性たちがかたまって座っていたりする。こちらは半袖の汗だくであちこちうろうろ。昨日は暑かったんだ。中国人が多いのも意外。「歴史認識」の海外研修か?

帰り際、チラッと売店をみると「晋ちゃんまんじゅう」麻生太郎の似顔絵のついた「タローカポネ・ラスク」。知ってはいたが実物を見るのは初めて。毒のようで、食う気がシネーナー。

見る

Apple

「見る」ということが(見る、だけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている。複層的とは、「見る」にも、生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ。味を見る、調べる、検査する、試行する、考えるなど、「見る」にもたくさんの意味があり、私たちはそれらの意味を意識的、無意識的に、切り替えて「見て」いるということ。

なあんだ、国語の問題ではないか、という人もいるだろう。けれど、私たちが絵を描き、絵を見る時、あるいは音楽を聴く時でも、音に反応し、色に反応し、作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックし、その度にまた新しいものが見えたり、せっかく見えたものが失われたりする、現実の「見る」ことに直面するわけで、決してたんに言葉=国語の問題として、済ますことはできない。

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない。描くこととほとんど変わらないのではないか、とさえ思える。描く方が、むしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ、対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る。

その上で、あらためて「単純に見る」ことの意味を考える。