明日は来ない

「かもめ」(エスキース)

 先月末、3ヶ月ごとの腰の定期受診をした。痛みもなく、かなり順調に来ていた腰の調子がだんだん下降気味になって来ていたので、そのことを医師に告げると、「筋トレの質を上げる」よう指示された。確かにちょっとサボり気味だった。その日から「質」を意識しつつ、回数も増やすことにした。

 具体的には、一回ごとに筋肉に手を当て、ちゃんと力が入っているかを確認、持続時間もきちんとカウントする、程度のことだが時間は倍以上かかることになった。忙しいふりをして適当にごまかしていたところをキチンとする、それを(今までより)心がけた。今夜、たまたまラジオで近畿大学准教授・谷本道哉氏の「筋肉は裏切らない」を聞いた。「そうなんだー」。

 明日から自分も筋肉体操やろう。「そう思った人に明日は来ません」と彼は番組の最後に言った。–そうなんだ。すぐやるか、明日やるかが「心の老化の差」と直感した。子どもの頃、思いついたこと、やりたいことを明日まで待てなかったではないか。いつの間にか「無理しない」つもりが体だけでなく「心」まで怠けさせてしまっている。動物や植物など自然の生き物ががなぜ私を惹きつけるのか、その理由にも思い至った。

逸ノ城

大相撲初場所。今日、モンゴル出身の関脇・逸ノ城が負け越した。今場所も、横綱稀勢の里には当然のように圧勝し、二人の大関にも毎場所堂々と勝っているのに、である。初入幕の場所でいきなり優勝争いまでし、その後はトントン拍子で関脇まで一気に進んだ。横綱はともかく、間違いなくすぐ大関にはなると、相撲ファンの誰もが疑わなかった逸材である。

身長もあるし、体重は220kgと体格においては誰にも引けをとらない。体格の割には相撲も器用で、上手い。ただ、何故か自分と同等以下の力士との対戦の時に、とてつもなくノロい感じがする。テレビは持たないからラジオで聴くだけだが、実況アナは見えるように話せるので、イメージを描くのに何の支障もないのだが、逸ノ城の動きだけはどうにも見ないと想像できない。ラジオだけだと、 動物園の鎖に繋がれた象のように、ボケーッと突っ立っているだけのようにしか想像できないのだ。これだけ強い力士に、そんなことあるだろうか。

不思議。逸ノ城は何を考えているのだろう。大関、横綱を倒した時のインタビューを聞く限り、結構理知的な受け応え。少なくともボケてはいない。

そうだ、大阪なおみの全豪オープンテニス。優勝して欲しい。いや、するだろう。彼女には才能がある。けれど逸ノ城にも同じように才能があるのに、負ける。なおみが勝てて、逸ノ城は負ける。それは何故なのか、そこに何があるのか。興味がある。

稀勢の里、引退

横綱 稀勢の里が引退した。場所前は調子が良いとか言っていたようだが、たぶん今場所で引退になるのではと予想していた。予想が外れれば良いと思っていたが、結果を見ればやむを得ない。

けれど一方で、私には稀勢の里は相撲協会、文科省、NHKなどの犠牲者でもあると思われる。もし、稀勢の里がモンゴル出身力士だったら、あの時点で横綱昇進はあっただろうか。「日本人横綱」が欲しくてたまらない、協会関係者の都合優先ではなかったのか。他のスポーツならトレーナーやらトレーニングコーチ、メンタルコーチなど、コーチングに関してもっと科学的な志向を協会全体で目指すものだが、相撲協会は「スポーツ」と口では言い、文科省は「国技」と言い、NHKは他の全てのスポーツにはあり得ない、格別の番組編成で人気を煽るだけ。「進退のかかる場所」などと勝手に口走る。大関魁皇の時も「進退…」と先走り、顰蹙を買った反省のカケラもない。相撲内容自体は確かに稀勢の里の責任だが、これらの無責任勢力の圧力に追われて猪突猛進せざるを得なかったことも、確かだろう。

かつて同じように「国技」「お家芸」とまで言われたレスリング、稀勢の里のような身体条件で出場させるのだろうか。一言で言えば、相撲協会はおバカな芸能プロダクションのようなものだ、と思う。つい先日問題になったNGT48の運営と、どう違うのか。稀勢の里が引退した途端に、惜しむ声、いかに立派だったかを、まるで手のひらを返すように口走るNHKの、恥を知らない態度をみれば、ますます稀勢の里は犠牲者だと考えざるを得ない。

けれど、稀勢の里個人にとっては辛くもあるだろうけれど、こういう経験はしたくてもできるものではない。まさに稀勢の里であるがゆえ、だ。彼にとって、この経験が賜杯以上の価値を持つことを心から祈る。