Covid-19 に見る、「日本」という考えかた

「Snickers 2」 2020 水彩

新型コロナ・ウィルス(Covid-19)がヨーロッパと南北アメリカ大陸、さらにオーストラリア、アフリカへと広がりつつある。アジアでは中国と韓国がどうやらピークを越えたようで、台湾、シンガポールが制圧に成功するかどうかの瀬戸際。他のアジア諸国では日本同様、感染が拡大しつつあるというのが大勢のようだ。ウィルスの国内感染を防ぎたいのは世界各国共通だし、入国制限などの具体例では日本もほぼ各国と横並びだが、そのプロセスにおいて日本は世界と考え方が全然違う国なのだな、とつくづく感じさせられた。

安倍首相は「専門家の助言を聞いては『いないが』」(自分自身の判断だ)と述べるのに対し、私の見る範囲内に限るが、各国の首相、大統領は「専門家の意見を(常に)聞きながら」と、「専門的・科学的知見を前提に」国民に訴える姿勢が極めて対照的だ。確かに、思い起こしてみれば「私(安倍)は『森羅万象を統括する』総理大臣でありますから…」と国会答弁で幾度か堂々と応えているから、そういう姿勢もなるほどとはうなづける。「森羅万象を統括できるならそもそもcovid-19など出すな」とは誰しも思うけれど、虚言癖、誇大妄想、記憶喪失という重い症状だといわれる首相の言葉などに、いまさらこだわっても時間の無駄だ。

けれど、安倍氏をナメてはいけない。彼は政治の「天才」だと、私は思う。ヒトラーに極めて近い人間性を持っていると私は感じている。天才はたいてい「純心」だ。「純心」とは、自分だけがこっそり儲かるような行動をするとか、そんな世間的な打算が無いことをいう(選挙は別)。祖父の岸信介の願望達成に命を懸ける純心さ(皆のためになると思い込む宗教心に近いもの)、それが、元々ポリシーなどなにも無い多くの単純・無心(≠無垢)な自民党議員をまとめる力にもなるのだろうし、「特攻精神」などを崇高と賛美する一部国民の軍国主義的な美学(宗教)を代表できるのだとも思う(念のため断っておくが、旧日本軍における特攻隊隊員がそのような単純な精神の持ち主だけだったなどとは、私は露ほども考えていない。むしろ「特攻精神」なるものは特攻せずに済む人々による、単に煽動的な言葉だと考えている)。

そのような美学(宗教)を共有する人々には、日本を「ヤマト民族」独自の「当たって砕けろ」の特攻精神だけでcovid-19にぶつけ、しかも「必勝する」という信仰があるのだろう。科学的裏づけを二の次にしたがる、そうした神がかり的な発想が「いさぎよい」犠牲を国民に強い、そのあとを「自己責任」と丸投げする安易さにつながっているのではないか。

“コロナ” が照らしているもの

権現堂桜堤 2020年3月21日(土)午後3時。とても静かな花見

3月18日(水)に引き続き権現堂桜堤に行ってみた。4日前はほとんど咲いていなかったが、蕾は膨らんでいて、土日に暖かくなれば開花すると思っていた。今日はほとんどの木で開花していたが、全体としてはまだ1〜2分咲きというところ。現在の自粛ムード中としては、思っていた以上の人出だったが、それでも例年に比べるとずっと少ない。そのぶんゆっくり観られるし、屋台ごとに異なる音楽をガンガンかけたりの騒音や、目障りな提灯もないので、桜を見るだけなら例年よりずっと心地良い。

静かさといえば大相撲春場所。相撲はいつもラジオで聴くだけだが、コロナ禍のため無観客開催となっているせいで、力士どうしのぶつかる音や激しい息遣いだけでなく、仕切のたびに足で砂をならす音まで聞こえてくる。相撲協会としては興行収入が入らないのでがっかりだろうが、ラジオファンとしてはいつもの場所より満足度はずっと高い。選抜高校野球は中止になったが、もし無観客で開催していたら、きっとこちらもラジオの野球ファンを喜ばせていたことだろう。

おそらく、このコロナ・ウィルス禍を契機に、日本(人)の働き方は変わるに違いない。政府が音頭をとって小手先の働き方改革など主導するより、迅速に、実効性を持って変化する。自粛期間が長くなれば廃業する中小企業は増え、失業者は溢れるだろうが、それももしかしたらどんどん老化衰退するばかりのように見える日本を、一気にシャッフルし、若返りを図れるチャンスになるのかもしれない、とも思う。働き方が変われば考え方も変わる。そこに少し希望はある。しかし、それまで耐えられるかどうかは判らない。

考えてみると、(とくに北部)イタリアなどでは外出自体が禁止されている。地域によっては、生活必需品の買い物にさえ理由書のようなものを携帯しなければならないという。そんな人々が、感染源の一国とされ、国内感染者も増加している日本で花見などしている風景を見たら、「人の痛みが分からないのか」と非難する人がいてもおかしくない。そのような感情は政府や経済界の方々には理解できないらしく、いまだにオリンピック7月開催に固執している。おそらく実現できないだろうが、仮にやったとしても「人の痛みに共感できない」国が、自分たちの「お金のため、メダルのために」他国の「選手を犠牲にした」最悪のオリンピックだったと歴史に名を残すだけだろう。権現堂では桜の下で宴会している人はさすがにいなかった。でも、オリンピックの旗の下で宴会する人々はきっといるだろうと思う。

「不作為」の評価

「青い壺とリンゴ」 2020 水彩

「不作為」とは「敢えてやらないこと」、積極的な意味がある。似たような語に「無作為」というのがあるが、こちらは「何も考えずに」という意味で、「偶然に」に近い。多くの場合、評価というのは「結果」に対してなされるものだから、「やらない」ことを評価するのは、その方法も含め、案外難しいだろうと想像される。

多くの場合、評価には段階がある。学生時代の成績評価などはその典型例。数字で表せない事例でも、積極性、協調性、「明るい性格(!)」などには「高」評価がつき、何事も一人でやろうとするタイプには、協調性が無いとか、独善的などの「マイナス」評価がつきやすい。「引きこもり」=「悪」=「何とか社会に引っ張り出そう」という考え方もこのような評価から来ているようにも思う。外に出て、人と協働しないとダメなんていわれたら、芸術など成り立たないし、引きこもったままでも生きていける社会になった方がいい。

「積極性」って何だろうか。あるプロジェクトが企画されたとする。賛成・推進派と反対もしくは熟考派の3つ位には、最低でも意見が分かれるだろう。この時、プロジェクトを企画した方から見れば、賛成派=積極的、ほかの2グループは消極的と評価される可能性が大きい。反対する人は「敵対勢力」と見做されることだってありうる。「協調性」って何だろうか。嫌々でもリーダーに従っていれば、「協調性が無い」という評価はされないと思う。逆に、積極的にそのプロジェクトを理解し、その長短を考慮した上での反対であっても、少なくとも協調性を高く評価されることは(少なくとも私の知りうる範囲内では)稀有。

かなり荒っぽい論理になってしまうが、評価する側(の姿勢)に評価基準が偏りがちだということが、「不作為」の評価を難しくしている(ある意味自然とも言えるが)。日本の社会は、「提案・推進」=「建設的」と短絡的に捉えたがる精神風土を持っている。しかも、その提案自体、上意下達的な場合が多いように見える。提案に対する反対の場合でも「反対するなら対案を出せ」という言い方をよく聞くが、これも提案=建設的という固定した考え方をよく示している。そろそろ「AでなければBかC」ではなく、「Aそのものをしない」という不作為の評価と、その方法を考える時代になってきているのではないだろうか。