不要不急―2

「黄色の中の黄色の Apple」(study:CG)

2020東京オリンピックが延期になり、2021の8月に開催される予定も中止せざるを得ず、2032年立候補を考えている」と英タイムズが報じた。政府はやっきになって否定したが、検討していることはおそらく事実だろう。(日本のマスコミがこれを報道できなかった理由はなんでしょう?)

もういい加減に、世界中にごまかしをばら撒くのはやめたほうがいい。政府はやたらと「安全安心」も付け加えるが、この情勢でそんな言葉を使うこと自体、世界からの不信感を増すだけだ。かと思えば、すぐに「無観客での開催も検討中」と、これは公表した。なんで「安全安心」なのに「無観客」なのか、その論理の非常識さは幼稚園の幼児でもわかる。

オリンピックこそ「不要不急」の代名詞だ。いや、不要不急どころか、いまやってはならないと、国民の7割がアンケートにそう答えている。「人類がコロナを克服した証としての開催」だって(笑)、ちゃんと克服してからやればよいだけのことで、悪い冗談を通り越して不愉快である。けれど、「2021東京オリンピック」は不要でも、スポーツが不要だというのではない。むしろ逆で、こんな時だからこそ、どうやってスポーツを生活の中に普及させるられるか、じっくり考えてみるいい機会だと思う。

選手は気の毒だ。彼らの努力が並大抵のものではないのは誰でも知っている。だからこそ、きちんと中止だと伝えるべきだし、オリンピックだけが、メダルだけが選手のゴールではない社会環境を、このタイミングだからこそ作っていくべきだと思う。同じように、芸術・文化も不要不急のものではないことを、こういう時だからこそ考えるべきだと思う。まるでステイホーム=テレワークだけが推奨されているかのような状況だが、ステイホーム=クリエイティブ・シンキングこそ大事だと思う。

「不要不急」とはなんだ

「薔薇に雨降る」

 「不要不急」とは、「急ぐ必要がないもの、必要そのものがないもの」という意味である。ほぼ、「無駄だ」と言っているようなもの。自分のことを言うのならともかく、他人の外出に対し「それは無駄だ」と言ったなら、場合によっては殴りあいになるほどの傲慢な態度とみなされるだろう。「不要不急」とは、ふつうは人が他人に言うべきことばではない。

 ところが現下の日本では、「不要不急かどうか」を「他人目線で判断せよ」と、暗に(時に露骨に)強制されている。話がすこし跳ぶが、「自粛警察」なるものがときおり批判される。しかし、批判の仕方がマスコミではなんと「行き過ぎた正義感」という扱い方だ。正義感だって?自分の尺度で、他人を脅すことを「正義感」と言っていいのか?一方的な狭い解釈にだけ人を追い込むような環境をすこしずつ醸成していく、農村的、村八分的、非近代的な「日本人」が彼らを駆り立てている。もう少し進めば、医師や夜間救急の救命士などは「必要至急」の筆頭格、それら以外はみな不要不急ということにさえなりかねない。かつての軍人以外はみな不要不急の人々だったように。

 「緊急事態だから仕方ない」。たしかに仕方なくなってしまった。けれど、今回の「緊急事態」は無策の結果、という面が小さくない。首相は「国民には厳しい要請」だと言っておきながら、なぜそうなったか、そのためにどんな手を打ち、緊急事態宣言がどのように推移するかの見通しさえまじめに語ろうとしない。都合のいい時だけ科学者をつまみ食いするばかりで、彼らと真剣に議論する気持を持ってさえいないように見える。外出自粛とGoToキャンペーン、会食自粛とGoToイートの間の整合性にも頬かむりしたままだ。

 毎度のように「丁寧な説明」「説明責任」と口では唱えるが、結局は「説明は控えさせていただく」の繰り返し。夜8時以降の飲食店閉店と言ったかと思えば、昼間の外出、会食も控えるようにという。飲食店はみな潰れろと言わんばかり。出勤する人の7割削減。どうやってそれを達成するのか、すべて国民に丸投げだ。それが菅政権の掲げた「自助」の真意か。それが「国民のために働く内閣」の実態か。それを何の批判もなく「コロナだから」とすんなり受け入れる国民の「物わかりの良さ」よ。

 菅首相が、口ごもりながら「国民健康保険の見直し」に言及した。自民党の一部には堂々と、憲法から「基本的人権」条項を抹消すべきだと主張する議員たちがいる。すべての国民の楽しみを戦争のために犠牲にさせたこの国の過去への真摯な反省も無しに、「不要不急」とは、コロナ禍のどさくさに紛れ、国民の権利はく奪のために計算づくで挿入された、「大本営的」官僚語だと私は怯えている。 

「時代」に乗り遅れる

「Hurry up a little bit(少し急いで)」水彩 F4

先日のブログに載せた絵を描いたとき、途中で何枚か写真を撮っておいたので、それをつないでみた。ここ半年は「動画」とその編集で頭いっぱいなので、とにかく途中経過はなるべく撮っておく。

ウォーキング中、イヤホンからの「乗り遅れない」という語が、耳に引っかかった。ある業者が「時代の波に乗り遅れないように○○をする」という、普通なら聞き流すような流れだったと思うが、「時代の波って、その波の中にいたら分かるものか」という、いつもの反発心が、ことさらにその言葉を「保存」してしまったらしい。

もしかして、私がいま動画(編集)で頭を悩ましていることも、「時代の波」に乗るためなんだろうか?私自身の絵画史では「絵画の時代」はすでに終わっている。何かの文章にそう書いた記憶もある。けれど今も自分は絵を描いている、絵画の時代はすでに閉じたのに?それは、「絵を描くことは私の宿命」だと感じているからだ。どんなに時代遅れになろうと、宿命ならば仕方ない、そう考えているからだ。ーそれなら、なぜいま動画なのか。

ひとつにはパソコンが手軽になり、「動く絵=動画」が自分にも手の届きそうなところにある(?)からだ。世は動画で溢れている。TV会社など専門業者でなければ手の届かなかった映像の世界を、若い人たちはスマホを使って、インスタグラム、YouTubeなど、日記を書くように気安く作っている。油絵具じゃなくたって、水彩絵の具じゃなくたって、自分たちの新しい絵の具で絵を描くよ。そういわれているような気がする。それなら私も新しい道具で絵を描いてみたい。けれど、そう思うこと自体時代の波に乗り遅れまいという心理なのか、いまは判断できない。(現状ではまだ全然ダメだが)、もう少し頑張れば私も「新しい絵の具」で、また新しい自分の絵を描けるのではないか、となんとか希望をつないでいる。