パラリンピアンはモンスター

イチジク  ペン・モノクロ水彩

悪い意味で言うのではない。「凄すぎる」という意味での「モンスター」である。細かい内容はほとんど知らないが、パラリンピックの競技には障害の程度に応じた細かい規定があるらしいことは分った。団体競技では障害の違いを混ぜて(適切な言い方ではないと感じるが)、一つの競技から不利な障害者(これも適切な言い方とは思えないが)を排除しない配慮がなされているようである。

けれど、さらに重度の障害者、たとえば寝たきりの人がストレッチャーに乗って参加するなんてことはできない(たぶん)。五体満足であっても心臓に重い障害があるような内部障害の人もたぶん無理。そしてそのような人は決して少なくないと思われる。そのような障害者から見れば走れること、泳げること自体凄いことではないだろうか。車いすテニスや陸上走り幅跳びなど見ると、健常者のアスリートだって彼らに勝てる人はそんなに多くないのでは?と思うほどのハイレベルだ。

ましてメダリストは夢のまた夢の世界の住人。その彼らにして「銀メダル」「銅メダル」が「残念」と言う。「次は絶対金メダル」。ここまでくると、正直言ってわたしは共感できなくなる。「金メダルをとればパラスポーツへの注目が集まり、すべての障害者への理解が深まる」と選手も多くの関係者も言うけれど、そしてそれが嘘だとも言えないけれど、それが銅や銀でなく、なぜ「金メダル」でなければならないのかの説明にはなっていない。「政権与党でなければ自分の政策を実現することはできない」「そのためには『与党』で『当選』するしかない」と、当選本位の運動をする人たちの論理と奇妙に似ていると感じるのはわたしだけだろうか。

メダルと賞を同一視する人もいる。わたしは全然違うと考えている。(金)メダルは「(第1位の)証明」だが、賞はどんな場合でも「(あなたは更に発展できますから)頑張ってください」という奨励の意味が強く、第何位という証明はしないのである。オリンピックでもパラリンピックでも、「メダル」に替えて「賞」にすればよいと思う。そうすれば、「国別のメダル獲得数」なんて、くだらないどころか有害でさえある報道もなくなるだろう。

アフガン情勢から

木立ベゴニア

トランプ前アメリカ大統領が退任する前に、タリバーンとの間で撤退について合意していた。彼のあとを継いだバイデン現大統領が完全撤退を2021年9月11日までに完了すると発表してから、あっという間にタリバーンの大攻勢が始まり、ついに昨日15日、アフガンの大統領ガニ氏が国外に逃亡した。とうとうアフガンは再びタリバーンの元に戻り、2001年9月11日のアメリカ・同時多発テロをきっかけにアフガニスタンに戦争を仕掛けたアメリカの目論見は無になった、と報道されている。

わたしたちからはアフガニスタンは遠い。話題と言えば、故中村哲医師がアフガンの人々のために医療を提供するだけでなく、彼らの日々の暮らしのために灌漑用水路を作ることに身を捧げていたのに、2019年に反政府ゲリラによって射殺されたことくらいではなかっただろうか。けれど、世界があらゆる意味でつながっている以上、アフガンの情勢もわたしたちの生活と無縁であるはずはない。

アメリカが「悪の枢軸」と呼んでイラクを攻撃したのが2003年。フセイン政権を倒して(口実であった「大量破壊兵器」は発見されないまま)、そのあとをいわば「ほったらかしたまま」撤退したあとにIS(イスラミックステート)が、荒れ地の雑草のようにはびこり、人々を恐怖に追い込んだ(まだ終わってはいない)ことはまだ記憶に生々しい。2010から始まった、いわゆる「中東の春」以後も含め大量の難民が発生し、中東からヨーロッパにかけ、今もきわめて大きな問題になっている。難民の数で言えば第二次世界大戦より多いという。この時も「遠いところの悲惨な出来事」であり、わたしたちの生活には直接影響を受けないように見えた。

わたしにはこの鈍感さが一番の脅威だと思える。北朝鮮と韓国、中国と台湾。仮にここで難民が発生する事態になればわたしたちはどうするのか、考えておくべきことがそこにあるのではないだろうか。その時絵など描いている余裕があるとはとても思えない。コロナ対策一つとっても、政府を「後手後手だ」と非難するのはたやすい。けれど、そういう政府を作り上げてきたのは結局わたしたちである。わたしたちが考えないことを政府が考えてくれると思うのは間違いだと、この夏の「敗戦記念日」について、改めて考えた。

How to be a critical thinker

「Green apple and a book(unfinished)」  2021 tempera on canvas

表題は「どうやったら物事をよく考えられるような人になれるか」というような意味。critical は「批判的な」という意味があるが、日本的な、いわゆる反対するという気分より、「人の言葉を簡単には信用しない、鵜吞みにしない」「迎合せず、自分の頭で考える」というニュアンスの方が強いようだ。欧米では、子どもの時からこのことを訓練するらしい。

「自分の頭で考える」。そんなのあたりまえ、日本だってやっている、とは思う。けれど、自分の頭で考えたことを「人前で発表する」まではなかなかいかないのが現状ではあるまいか。発表すればリアクションがある。好意的なものばかりとは限らない。発表する側も批評する側もそこで考えが深まり、自分の頭で考えることの「中身」が深化することになる。だから、発表するということはとても大切なプロセスなのだ。

日本の学校ではなかなか「発表」ができない。あっても、ある程度決まった方向だけに偏り、賛成意見ばかりになりがちだとも聞く。そんななかであえて反対意見または疑問を述べるのはかなりの勇気がいる。先生も、反対意見を述べる子が孤立したりするのを恐れてか、適当なところでまとめてしまう。もう数歩進めるには先生の側にもそれなりの力量が要るのだろう。たとえばNHKの「徹底討論」が「徹底」といつも程遠いのは、おそらく似たような心理が働くからではないかと常々思っている。

相手を論破したり、説得できた方、つまり論争で勝った方が必ずしもが正論ということではないし、よい意見だということでもない。反対意見によって自分の見落としや考えの足りないところを考え直し、双方ともよりよい意見になることが良い討論であり、そういう謙虚な姿勢があれば、最終的に意見が一致する、しないに関わらず、それぞれより深い考えに発展する。

その意味で反対意見は貴重で、大切なものだ。けれど、当然ながら発表することがなければ反対意見など出るわけはない。こうした発表と討論の訓練を経ることで、発表する前によく考えるようになり、発表した後にもさらによく考えるようになる。日本では、選良中の選良であるはずの大臣ですら、このことがよく出来ていないのではないか、と思うことがけっして少なくないのが残念である。