CG的なアナログ制作

「湖池屋ハッシュドポテト」を描く

昨日(10/26)、「湖池屋ハッシュドポテト」をYouTube(制作プロセス)とこのブログ(画像)にアップした。そのCG制作の動画を家族に見せたら「なんか下手っぽい」「あのいい加減なデッサンから、よくここまで描いたね(皮肉)」の2つのコメントだけ。

ンじゃ、もちょっと描いてやろうじゃん (>_<) というわけで第2弾を描く。でも、描きながら(ちょっと冷静に)考えた。これは実際はほとんど手描きで、3時間近くかかっている。水彩とか、油絵とかと手順はほぼ同じ(「乾燥」にかかる時間は節約できるが)だから、絵の描き方の(疑似)実践例ともいえる。けれど、見た目にリアルに描けば描くほど、イラストレーターなどのソフトを使ったような外見になる。それなら、写真を取り込み、自動でトレースして、イラストレーターなどを使えば、半分以下の時間で、余裕で出来るのではないか。結局、(いろんな便利ソフトがあるのに)アナログでしか表現できませんっていうだけのことじゃないか、と。

これを見る人が自分でも描く人(しかも初心者)なら、描き方のプロセスはもしかして多少は参考になるかも知れない。でも、たぶん10人以下だからいくらなんでも効率悪すぎる。こんなことやっている時間があるなら、それこそもっとストレートに、もっ有用なソフトに習熟した方がいいのではないか。

そんなことばかり、ぐるぐると考えることが最近多くなった。実際の筆をCGのブラシに替えただけのアナログ制作(現状)と、実際の絵を描く楽しみ。CG的なアナログ制作(現状)と完全なCGとの仕事効率的な差。この3つを並べてみると、今やっていることが一番馬鹿馬鹿しいんじゃないか。深夜まで眼も身体も酷使して、意味ないことをやってるなーと寂しくなる。でもまあ、昨日の今日だ。100個くらいまでは「何でも描いてみよう」。

何でも描けばいいのかも

おつまみを描いてみた

「絵になるモノ」を探すと、つい古典的な発想になってしまう。自分だけモダンな構図、構成の絵になったと自己満足できても、一歩引いてみると、その感覚がどうしようもなく化石化している夢を何度も見る。

お酒を飲んだついでに、おつまみを描いてみた。現代のもの、たとえばステンレスとか半透明のプラスチックとか、「絵にならなそう」なものも、描いてみればそれなりの面白さも無くはないし、技術的な練習になら十分意味もある。あるものを絵画と呼び、あるものをスケッチと呼び、あるものをイラストとどこかで区別して、それぞれに別の考え方をする癖が、すっかり自分についてしまっている。

「どうやったら絵になるか」に頭を悩まし、教室でも同様に、そんなこと気にしない人々まで全員を悩ましてきた。「自分らしい絵を描きましょう」とか言って、そのための背景とか、構図とかの考え方など教えたりしてきたが、本当はそのことでかえって伝統的な考え方にはめ込んでいたのかもしれない。

眼に入ったもの、絵になってもならなくても、手当たり次第に勝手に描く。必要があれば今はなんでも調べられる。なんでもどんどん描けばいい。悩む必要も、悩ませる必要もなかったのかも。今頃になって、笑うしかないけど。

寂しい口笛

圏央道です。―希望ですか?それとも?ですか―ウォーキング中

なぜ人は歌うのか。わたし自身も誰もいないところで(たとえば運転中)何気なく歌うことはある。なぜか大勢の人の中にいるとき、場とは無関係に、声は出さずに心の中で歌ってしまうこともある。理由がありそうなときも無い時もあるが、結局はそのときの気分次第というしかない。そして、そのときの気分にぴったりの歌を知らないことを、時には残念に思ったりもする。

若い人たちはすごく音楽を聴いている(と感じる)。ある意味で音楽が彼らの日常を支え、励ましているからなのだろう。音楽は彼らの声でもあるのだ。衆議院選挙が近いこともあり、歌と言葉についてちょっとだけ想像を広げてみた。

言葉と歌の距離は、文学史的にはかなり近い。そもそもことばにリズムと音階を載せれば一応は「歌」のかたちになる。で、その歌詞をよく見ると、古代から現代まで政治的メッセージであることは少なくない。たとえばビートルズの「イマジン」。政治性を感じないという方がおかしいというほどのメッセージ性。歌は政治に近い―政治は論理的であるべきだとは思うが、(日本の)「政治」の言葉はそこからわざと、論理からも感覚からもずっと離れたところへ行こうとしているように見える。平俗的?に言えば「当選本位」の「キャッチフレーズ・オンリー」。つまりは「広告」だ。政治(のことば)が広告看板そのものになり下がってしまっている。―政治が音楽や美術などの芸術や、学問を軽んじているから尚更だ。

政治家が好んで取り上げる「文化」といえばせいぜいスポーツ。「東京オリンピック2020(事実は2021年)」期間中、某総理大臣がわざわざ官邸に記者を呼んで、金メダリストにお祝いの電話をかけるパフォーマンスを繰り返した。これを見て多くの日本人は、自分の股間を人前で何の羞恥心もなくさらけ出しているような、いわば21世紀の日本がまだサル(猿)の社会のままであるかのような精神的屈辱を味わわされたのではないだろうか。少なくともわたしは、ニュース画像中の得々とした彼の顔に、サル(猿)のマスクを重ねないでは正視出来なかった。新首相はまだマシかと一瞬思ったが、もう忘れかけていた「アベノマスク」の「生地の新調」に過ぎなかったので、やはり「アベスガサル芝居・第二幕」の幕開けだったのか、と腑に落ちた。

人はなぜ歌うのか。それは人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ学問をするのか、と同じ問いだ。世界がどうあれ、日本の政治がどうあれ、わたしたちは若い人も、老人も、とりあえずは「明日も明後日もあるものとして」生きていく。明日のことは判らない、でも、明後日のことなら歌ってみたい。―――歌は自ずから・・・と書きかけたが、せめて明後日のために―寂しい口笛になってしまった。