VR

Matsukasa

「ヴォドゴルコフ伍長はウラジーミル軍曹との戦闘を再開した。会ったことはないがお互いに顔どころか、趣味や、ある程度の生活の状況までよく知っていた。互いの距離は100km。もちろん銃などの届く距離ではないが、目まぐるしく位置を変える相手のうしろ姿を、獲物の匂いを嗅ぎつけた犬のように追っていた。
 ヴォドゴルコフ伍長は80歳になったばかり。ウラジーミル軍曹は数年前にすでに亡くなった。けれど、今はどちらも24歳。どちらも上空のドローンに見つからないよう、なるべく葉の多い木々の下を選び、腰を屈めながらネズミのように小走りする。」

「ヴォドゴルコフ伍長は病院のベッドでたくさんの医療用チューブに繋がれたまま、ゲーム機のようなボタンに指を置いている。ウラジーミルは、禿げた頭と真っ白いあご髭を振り回しながら、楽しそうに24歳の頃の思い出をモニターの中で語っている。背後のモニターでは若い彼がキーボードをたたきまくっている」―これは仮想?いや、どちらかが引き金を引けば(ボタンを押せば)実際に弾が発射され、そこでどちらかか、あるいは他の誰かが死ぬ―VRで戦争すればこんなふうになるのだろうか。

VRで戦争すれば―と書いたが、1990年の湾岸戦争で、わたしはすでにVRでの戦争を見た。モニター上で破壊される戦車は虚像であるが、数キロ先で実際に戦車は破壊され、若い兵士がその中で体を引き裂かれて死んでいる。いま現実に起きているウクライナでの戦いはすでにVR戦争そのものだ。
 ※VRは「Virtual Reality / バーチャル・リアリティ(仮想現実)」と訳されるが、Virtual という語には「仮想」というより、むしろ「現実的・実質的な」という意味合いが強く、「見かけはそうでなくても、こちらが本当(現実)でしょ?」という内容を示している。

わたしはコロナウィルスがどんな形をしているのか、生理的な視覚では見ることができない。けれど、その姿を知っているどころか、疑うことさえしない。知床の観光船が海底に横たわっている姿も、それが現実だと信じて疑わない。カメラが出現したときから、いや、実際は人類が「絵画」を創造したときから、現在のVRまでは歴史の必然だったとさえ思える。朝、食事をする。ご飯、パンを食べているのか?それとも目に見えないはずのカロリー、タンパク質何グラム、を「食べて」いるのか?計算通りダイエットが進めば、それが「現実」?

ゼレンスキー大統領

ドライフラワー  ペン、水彩

ウクライナへのロシア軍侵攻には、多くの人が心を痛めているに違いない(その逆も半数は居る、と考えるのが「世界の常識」らしいが)。その中で、黒海沿いの主要港湾都市マリウポリにあるアゾフスターリ鉄鋼団地に、圧倒的な戦力のロシア軍に対して立てこもるアゾフ大隊・ウクライナ軍が昨(5/16)夜「任務を終了」し、傷病兵を含め、ロシア側地域にではあるが、一部投降、移送されたとのニュースに、人道的な意味でホッとした人も少なくはなかったと思う。

ウクライナのゼレンスキー大統領(もうそのプロフィールを書く必要はあるまい)にとって、ある意味では苦渋の決断ではあっただろうが、素人目にもよく計算された、最善の決断だと思う。太平洋戦争における日本帝国軍の「玉砕」戦法(戦法といえるかどうかは別として)に比べても、2021年9月のアフガニスタンにおけるバイデン大統領の撤退期日公表に比べても、あらゆる意味で一段階上の合理的、冷静な判断だった。

2/24未明のロシア軍の侵攻直後、ウクライナは一気に対空防御能力を失った、と思われた。その後の一方的な空爆により、「外交知らず」「戦争知らず」「政治的無知」なはずの、「コメディアンあがりの」(たまたま大統領になってしまった)ゼレンスキーは震えあがって国外に逃亡し、アメリカが用意したベッドの上で口先の「亡命政府」を名乗るだけになる、と多くの人が予想したが、彼はそうしなかった。どころか、それらの予想を180度ひっくり返して見せている。5/17現在で、ウクライナがなお領土防衛の高い士気を保っているのは、ひとえに彼のこの姿勢が原点になった、といっても過言ではない。

まさに映画のヒーローそのものであり、ゼレンスキー氏自身が当の映画人であってみれば、「彼が(たまたま)大統領に選ばれた映画」そのものをいまだに演じ続けていて、おそらく心の奥底で、彼の役者魂がかえって彼を真の大統領に為しえている、とわたしは想像する。彼の冷静さも自分と役柄との微妙な呼吸から。どこかで自分自身をカメラで追っている感覚。それが彼を本物のヒーローにしている、ひとつの力なのではないだろうか。

「オリジナル」という「物体」

クレマチス咲く ペン、水彩

クレマチスをモチーフ用に2鉢買った。毎年咲いていた、大輪の、ビロードのような青のクレマチスが、なぜか今年は姿を現さない。散歩しながら他所のクレマチスもチラッと見たりするが、我が家のものが一番立派だったような気がして、かなり残念。

ここ2~3年、かなりCGスケッチや動画製作に時間を注いできたので、物理的な物体として手元に残る作品数はぐっと少なくなった。CGだって作品には違いないが、長年邪魔者扱いしながらもキャンバスやスケッチブックに描き残してきた感覚からすると、なんとなく(否、かなり)物足りない感じがする。
 紙に描いたからといって感覚的には特別どうだということもない。けれど、ここに確かに1枚在るという、安心感のようなものはある。お手軽だが、とりあえずは「オリジナル」って感覚だろうか。CGでも、NFTといった「オリジナル」作品を創ることは出来るが、手描き=オリジナルという等式には(時代の意味が変わっても)今でもなんとなく頼っている。単なる世代ギャップなんだろうか。

もし、「手描き=オリジナル」という等式がこれからも不変のものであるならば、これまで数十年も苦労して辿ってきたその不変の道から、わたしは少しはぐれてしまったことになる。この歳になって、やっとCGの世界にほんの一歩だけ足を踏み入れた程度だが、その時「この等式はいずれ意味を為さなくなる」と直感し、道を踏み外すことへの小さな覚悟があったことは忘れていない。

手描きによるオリジナルも、CGによるオリジナルも、社会的にはともかく、制作者個人にとっては実際はそんなに違わないものかもしれない。それにしても、いまだに現代の絵画の値段が数億円もするという現実を見ると、オリジナル=独り占め、という人間の物欲の等式の強さをまざまざと見る思いがする。