芸術は何を与えているのか

ポットの花 (水彩)

かつて世界選手権やオリンピックの代表だった、某スポーツ・コメンテーターが最近こんなことを言っていた。「スポーツ界が、スポーツをやらない人の税金まで使って、社会に何を還元できるのか。それを考えないと国民がスポーツから離れて行ってしまう」。

心情を理解できなくはないが、ちょっと危ないなと感じるのは「税金を使うのだから何かを返さないと(いけない)」という、ギブアンドテイクに似た部分。この部分は最近の日本ではむしろ多くの人に共感されそうだが、少し深く考えれば「返せない(と思われる)人には使わせない」という社会的弱者の排除につながりかねず、子どもの教育にも、「将来国に返せよ」という国家主義的な義務感を植え付けかねない、と思う。もちろん本人は直接そんなことは言っていないが、そう解釈されそうな論理を孕んでいる。この「返し」が「かたちあるもの」になってくると「(金)メダルでないと意味がない」などという発言になってしまう。

そんな考え方をしてしまうと「では、芸術は何を返すのか」ということになり、かつてのロシアや現代の北朝鮮のような「国家に奉仕する」プロパガンダ絵画になる。「芸術は社会のカナリアだ」という人々がいる。確か、むかし炭鉱夫が坑内へ入るとき、酸欠状態かどうかを知るためにカナリアを先に入れたということが言葉の起源だったと記憶している。スポーツや芸術を認める社会がとりあえずは「安全」だ、というバロメーターとしてだけでも、すでに充分意味のあることだ。

世は健康志向だ。けれど、三流映画に出てくるような、ただただ殺戮するだけのロボット的な軍人ならともかく、運動と栄養だけで人間は健康になれるわけではない。精神的な愉しみ、安らぎが必要だ。心の栄養も不可欠だということ。人間らしさ、という意味では芸術は最も社会還元の大きな分野だ、とわたしはいつも思っているが、同時にそれがこの社会の常識であり続けることを、心から祈ってもいる。

安倍元首相、暗殺

黄色のワイン瓶 (水彩)

7月8日午前11時半頃、安倍元総理大臣が奈良市で選挙応援演説中、男に手製の銃で撃たれ死亡したというニュースに、日本だけでなく世界中が驚いた。

ウクライナで、なんとも馬鹿げた戦争を始めたプーチンでさえコメントを出した。こんなバカげたことがなぜこうも次々と続くのか。

参議院議員選挙の期日前投票に行ってきた。

政治だけでなく、地球環境もふくめ、特定の人々の利益や考え方が世界をゆがめていると思えてならない。

道は交わらない

ワイン瓶のある静物 (水彩)

7月になってもう七日にもなる。今日は七夕。でも、ちっともそんな気分にはなれない。星に平和をどれほど多くの人が願っても、どんなに多くの人が病気や災害のない世を願っても、ウクライナ戦争は起き、コロナは蔓延する。結局は自分で自分を護るしかない、そんなしぼんでいく気持ちが、逆にどちらかといえば攻撃的な機運の底辺に漂っているのではないか、そんな気がする。

アメリカだけでなく、デンマークでさえ銃の乱射事件。いつ、どこで同じようなことが起きても不思議ではない時代になった。もし銃規制がアメリカ並みだったら、日本でも乱射事件は日常茶飯事だろうと、日ごろのニュースを見ても想像できる。

アートはどうなんだろう。そもそもそんなものは人々の眼中には映っていないようだ。やっぱり、人はモノが欲しいのだ。カネが欲しいのだ。ケンリョクが欲しいのだ。残念ながら、欲望の一本道は延々と続き、道は交わらない。

たった今、BBCの臨時ニュースで、ジョンソン首相が辞意。これでウクライナ戦争の方向がだいぶロシア優位になるだろう。ロシアが歓迎のコメントを出した。