スピードと“いいね”

一見アジサイに見えないが、よく見るとたしかにアジサイの仲間だ

情報の発信力が大事だと、企業や自治体だけでなく個人に対しても言われる時代。どんどん新しい機材が開発され、パソコンのことなどほぼ知らなくても、世界中へ発信することが誰でもできるようになった(たとえばTwitterなど)。

一方で、発信された情報を吟味する力、いわゆる情報リテラシーの方は、「自分を護るためにも必要だ」というだけでどうも具体性がない。その方法もその養成法も「本人任せ」か「いろいろ勉強(経験)して」というばかり(だとわたしには思える)。言う方もたぶんどうしたらいいかわからないのだろう。

だから(?)発信量が異常に大きくなる。発信するのは「認知されたい」からであるから、1回よりは10回、100回よりは1万回発信する方が有利なのは当然だ。1回の情報発信に丁寧に時間をかけるより、不満足でも100回の方が良く、相当不満足でも1万回、というふうに流れていくのも、ある意味で自然。そしてどこかで“いいね”を貰えたら(反応があったら)そこに集中する。中身よりスピードが最優先だ。
 “いいね”を出す側、つまり受信側には「リテラシー」がない。そういう状況で、たまたま気まぐれに 反応する。そうはいっても1万回だの100万回も“いいね”がつくのは、やはりそれなりの説得力があるのではないか、と多くの人が思うから、そこで情報のサイクルができあがる。
 でも、現代では、たとえ1億回再生されたビデオでさえ(そんなのももう珍しくない)、それを覚えている人などほぼいない、どころか数日後にはもう忘れられていく。それのどこに「説得力」なんてあるのだろう。発信側の単なる思い込みとどこが違うというのだろう。

10人に手紙を書くのは大変だ。内容が混み入ってくれば1通の手紙にも何日もかかったりする。親身なものであればあるほど、ストレスにもなる。そういう状況は(上記の事情で)現代では歓迎されないから、チャットGPTにでも、なるべく丁寧かつ決して『儀礼以上ではない』手紙を「自動で発信」してもらうのが一番よい。なにより、そんな手紙を書いたって“いいね”は貰えない。スピードがいのち。いいねが貰えなければやる価値がないのである、“いいね”そのものの価値を問わない限りは。

同じことが繰り返せない

昨日18:00 アップ

同じことのくり返しができない。飽きるとかそういうことではなく、単純にくり返すことができない。2回目まではなんとかなるが、3回目になるともう自信がない。

「同じこと」はできないが、「似たようなこと」はなんとかくり返し(?)できる。たとえば皿洗い。皿洗いは毎日毎回少しずつ違う食器を使うので「似たようなこと」だが「同じこと」ではない(屁理屈のようだが、わたし的にはまじめに区別している)から続けることができる。けれど、たとえば同じ皿だけ20枚、30枚洗うのはちょっと大変。どこかで落として割るのではないかと、緊張してしまう。「慣れ」が苦手らしい。

言われるまでもなく、現実には「同じこと、同じもの」というのは存在しない。あくまで感覚の問題である。(だから?)それは自分の(感覚の)問題かと思っていたが、どうやら多かれ少なかれ、人間全体がそうできているものらしい(一安心)。
 人類史を考えてみると、毎日毎日その日の食料を探し、自身や家族を厳しい自然環境や敵から身を護るのに、一瞬たりとも「同じこと」を現実に繰り返すことはなかった(できなかった)に違いない。そういう意味では「同じこと」を「繰り返す」ことが「できるようになった」のは文明の力であり、きわめて最近のことなのだ。人間の(脳の)機能に「単純くり返し」が組み込まれていたら、むしろ人類はここまで生き延びていなかったのかもしれない。

現代は(モノや社会に対しての)「慣れ」を要求する。「慣れること」が本人だけでなく、むしろ社会にとっても負担が少ない、と認識されているからだ。「慣れ」の苦手な自分がマイナーな気分になったことも、たぶんそこに起因する。
 現代人はビデオ製作などを総称してクリエイティブ(創作)と呼ぶが、そこには逆説的にではあるが、人類の“ふるさと”である「慣れないこと」に向かっての憧憬が、無意識に働いているような気がする。

あしたのジョー

ここのところウォーキングしていないせいか、腰がまっすぐ伸びない感じで、すっかり歩くのが「下手」になってしまった。歩けないわけではないが、タガの外れかかった木製の人形の腰から上が折れたように、30度くらい前に倒れた格好でガクガク歩くのである。そんなふうにして自宅から約1.5㎞ほどのところにある書店まで行った。

話題の本が並んでいるコーナー。高齢化社会を反映してか、70代、80代向けの本も結構並んでいる。ペラペラとめくってみると、多くが「がんばらない方が長生き(生き生き)する」と語る「老人向け『啓蒙』書」!頑張らない生き方をするためには、これを読んで頑張りましょうというブラックジョークか。

リスキリング(re-skilling、学び直し)だのなんだのと、50代、60代、70代を再戦力化するための「ケイモー」書の類。その棚で、カバーの文字が180°ひっくり返っている。目次を見ると「歳をとったと認識して、頑張らず、自分らしく生きる」ための方策がずらり。(英語など語学の)勉強せよ、毎日歩け、パソコン使え、好奇心持て云々。なんのこっちゃ?そんな、ラジオ体操みたいに他人のリズムに合わせて「自分らしく」生きられると思ってんのか?自分って誰?要するに、カバーは変わったが中身はまったく同じものなのだった。勝者になれ!常にファイティングポーズを取れ。結局はそれしかないのだ、と。

けれど、現実はたぶんそれが正しく、そして多くの人にはそれが出来ないだけのことなのだ。小さくファイティングポーズを取って、小さなジャブで満足するか、大きく構えてKOされるかのどちらか。どっちになろうと「啓蒙書」の人々の知ったこっちゃない。彼らこそ勝者になろうと、必死にファイティングポーズを取るしかないと信じているからである。養老孟司(たけし)さんが書いている。「一匹の虫が飛んできた。元気だ。それ以上なにが必要だと言うのか。」99.99%の人には無縁の言葉だが、それもひとつの真実ではあるに違いない。