マッチ・ポンプ(自作自演)

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「マッチポンプ」はかなり昔に死語化した語だと思っていたが、近年「ステルス(見えない)マーケティング」(有名人に番組などで商品を使ってもらい、それとは知らせずに宣伝すること)という経済用語?の登場に引っ張られるかたちで、ときどき再出演する語になっているらしい。

マッチポンプは、ふつう悪い意味にしか使われない。自分がマッチで火事を起こしておいて、真っ先に現場に駆け付け、ポンプで水をかける。それで消火の栄誉を得ようとする、という意味だから当然だ。実際にそういう例は意外に多く、そこから国際政治の喩えにも使われたようだ。「プーチンの戦争」もそう見えている。

最近のことを考えてみると、マッチポンプだらけと言っていいような状況に見える。「火付け役」が「起業(家)」、「陰謀」が「共有」「メディア」が「煽り役」と役どころの名前を変えると、そんな風に見えてくる。ただ、それが複数であり、演者も自覚なしに演じてしまっていたりと、“ステルス”化している。一方で、YouTube動画や tiktok、インスタグラム等、こちらは皆自作自演である。マッチポンプとは言われないが、良い意味?でそれが普通になり始めている。

しかし、こちらの「自作自演」は基本文字通りのフリーランスであり、メディアに乗れば歓迎される一方で、現実の負担はかなり厳しいものがある。tokyo2020で金メダリストになったスケートボードの選手たちの、そこへ至るまでの道のりの厳しさはすでにある程度知られているだろう。けれど、彼らの前にその道へ一歩踏み出した人がいることを忘れてはならない。道をたどり、道を広げるのももちろん大変だが、最初の一歩もそれに劣らない、と思う。マッチの火をつけることがいかに大変か。ポンプまでいけば、なかば成功したも同然だと思う。

コンピューターはウソをつく

コンピューターによる切り抜き

むかし「インディアン嘘つかない」という、お菓子か何かのコマーシャルがあったのを覚えている。それが「○○噓つかない」と、今でいう流行語になったような記憶もある。

「コンピューター噓つかない」は流行語ではなく、常識「だった」。コンピューターは間違わない。「コンピューターの間違いにより」というお詫びの文言は、「(人間の)入力ミスにより」だと技術者たちから必ず不平が出たものだった。能力の多寡はあれど、コンピューターの正確さと早さには絶対の信頼が「あった」。

「だった」「あった」と過去形になったのは、コンピューターが嘘を平気で吐けるようになったから。少し前「チャットGPT」について書いた。その能力の高さを、今度は「嘘をつく」ことであらためて証明して見せたらしい(ニュースの文脈では、そのことを能力がまだ低いことの例として紹介していたが)。(人に合わせて?)「適当にごまかす能力」と言い換えてもよい。あるいは、コンピューターが自らデータを「意図的に選択したり、隠したり」という能力を身につけつつある、と言い換えたらどうだろう。

いかに博識の人でも、人間の知識には限界や偏りがあるのが普通。質問するのは当然自分のよく知らないことだから、適当な知識を織り交ぜて、納得いくような説明をされれば、それが嘘か事実かを見抜くのは簡単なことではない。しかも、誤りを指摘されると「手抜き?」を謝るというのだから恐ろしい。人工知能の研究は全世界的に猛スピードで開発競争がなされているようだが、開けてはならない「パンドラの箱」をすでに開けてしまったのかもしれない。コンピューターが人間を排除する、SFの世界が現実のものになった、これが最初の証拠でなければいいのだが。

賭け

鳥の置物 (フェルトペン、鉛筆、水彩)

お金を賭けるだけでなく、「人生を賭ける」「命を賭ける」という極端な経験をする人はどのくらいいるだろうか。1%か、もっと少なく0.001%くらいかと思ったが、よくよく考えてみるとほぼ100%の人が、実は経験するのではなかろうか、と思い至った。

たとえば結婚。ある程度納得のいく情報交換、プロセスを経て結婚に至るとしても、「他人は他人」。相手について知り得たことより、知らないことの方がはるかに多いはずであるが、どこかで「えいやっ」と決断する。そして、基本的には一生を共にするのだから、まさに「人生を賭ける」といっても決して過言ではない。特に地方にあって、長男である夫の家に嫁ぐ(“とつぐ”という言葉自体がその内容を示しているが)女性においては「清水の舞台から飛び降りる」以上の決断だと思う。わたしのようなヘナヘナ人間には、その決断力だけでも驚嘆に値する。

朝起きて、ご飯を作り、食べ、会社や学校へ行く。帰宅帰りにスーパーで買い物をして晩ごはんを作り、食べ、洗い物をする。明日のためには、もう風呂に入って寝るしかない。そんな“日常”さえ突然断ち切られたりすることがあるのは、ニュースなど聞かずともそこら中に満ちあふれている。「それは特別な場合でしょう?」と思う人が多いのは、それだけ「人間」に「文化」がある証拠なので嬉しいことではあるが、(人間以外の)動物ではそうはいかない。子育て中の母親が、エサを探しに行く途中で他の動物のエサにされてしまうことは「自然の一部」。それが「日常」なのだから、少なくとも(人間以外の)動物においては「毎日が命がけ」は現実そのものに違いない。

けれど、動物にとっての「命がけ」は「賭け」ではない。いかに命がけであろうと、それは「日常」である。「賭け」には、それを「賭ける」意識が必要だ。失敗したら何かを失うが、その何かと賭けるものとの「差額」のような意識がなければ、それは賭けではない。つまり「リスクの意識」の有無である。リスクと利益の計算を、一定の根拠に基づいて行動に移すこと。それが「賭け」だとしたら、人間なら、生まれてこのかた、ずっと賭け人生だと言ってよいのではないか。違いがあるのは根拠の確かさと失敗したときの覚悟だけ。もしかしたら、その覚悟の有無だけを人は賭けと呼んでいるのかもしれないが。