YouTube から気づいたこと―わたしの場合

黄色い花のスケッチ(水彩)

昨日(3/28)、教室でデモ制作したスケッチです。これを一回の講座時間内で描き上げるのはなかなか難しいと思います。教室の人たちも結構焦りながら(かつ、のんびりと)描いていたようです。

教室の人たちは皆さんベテランなので、当然のようにすんなり描き始めますが、初心者でいきなりこれを描けと言われたら、とたんに固まってしまい、おそらく手も足も出ないでしょう。教室では何十段ものステップを積み重ねてきていますから、本人の満足度を別にすれば、とりあえず、これに近い状態まで描き上げることができました。

こんな複雑なモチーフを短時間で描けること自体、すでに初心者とは言えないレベルであることを示していますが、それなのに油絵や他の教室の人たちも含め、「自分はちっとも進歩していない」「いつになっても初心者レベル」と、どうも思い込んでいるようなのです。理由は「遠近法がよく理解できていないようだ」とか「骨格や表情の表現がうまくできない」からなのでしょう。確かにそれらの一つ一つは乗り越えてほしい課題ですが、全体として見れば、ある程度描きたいものは描けるようになっています。常に上を見る、上達への志向性と、「自分はまだまだ」と自信を持てないこととが裏腹になっているのですね。

最近、YouTubeをやって気づいたことはたくさんあるのですが、そのひとつが今述べたことです。YouTubeへのアップに力を入れ始めて半年、視聴者はずっと増え続けましたが、ここ1~2ヶ月はどんどん減っています。決して手抜きではないし、内容が悪いわけでもない。とすると、どういうことなのか?送られてくるデータをもとに考えてみました。
 ひとつの仮説―内容が難し(高度)過ぎる。
 ビデオを企画するとき、頭の中に教室の人たちのことを思い浮かべます。そして彼(女)らが次のステップに進む助けになるように作ろうと考えます。一方、YouTubeは基本的に上昇より間口の広いことがプラスに働くようにプログラムされています。日本人の多くの人は自分の実力を過小評価しがちです。中級どころか、上級者でさえ「自分はまだ初心者」と考えているのです。もちろん謙遜もあるでしょうが、少し自己肯定感のバランスが行き過ぎではないでしょうか。ともかく、そんなわけで、初心者以上のレベルを想定すると、間口がぎゅっと縮まってしまうのではないか。そんなふうに感じています。視聴者が増えていた時は、わたしもYouTube初心者だった(それは今もですが)ので、「初心者」とある意味で波長が合っていたのでしょう。

春の愁

アップしました

一日おき、奇数日にブログを書くと正月に宣言したのに3カ月も経たず、昨日脱落。動画の編集、最後の最後でトラブルになり、機会を逃してしまった。

ニュースではWBC(World Baseball Classic)の話題で持ち切りだった。わたしも野球は選手もしたし、もちろん好きだが、この報道一色ぶりはなんだか怖い。ほかにニュースがないほど日本は精神構造に多様性の小さい国なんだなと感じる。いみじくも春の選抜高校野球も始まり、選手宣誓で「一枚岩」が伝統であることが誇らしげに述べられた。「根性」とならび、わたしの最も嫌いな単語のひとつだった。

WBCの影に隠れるように岸田首相がウクライナ・キーウを訪れたそうだ。「電撃的」とNHKなどは報道したが、いついくのか、まだ行かないのかと言われ続けたあげくの「電撃的」など、NHKの言語感覚もだいぶずれている。それはともかく、ゼレンスキー氏に広島名物の「しゃもじ」と折り鶴をテーマにしたランプをプレゼントしたそうだ。しゃもじには「必勝」という文字が入っているそうで、「平和」を口にするだけで平和構築のためには何一つ独自に動こうとしないところから、むしろ一歩逆に出て、積極的な戦争応援と受け取られても仕方なかろう。ロシアに対する宣戦布告の最前列に加わったというメッセージを伝えてきた。外務大臣を歴任したことがちっとも勉強になっていないと思わせる政治感覚。

頭が混乱している。とにかく自分の時間を確保したい。

チャットGPT やってみた

編集中のビデオから

チャットGPTやってみた。無料の体験版で、ちょっと古いバージョンらしいが、とりあえず“触り”を体験してみた。今回は話題の音声入力ではなく、キーボードでの入力。

実際にどんな風に試したらいいか、初対面の人に何から話し始めたらいいか戸惑うのと、そっくり同じ気持ちになった。まずは、小学生が調べる宿題を出されたと仮定して「りんごの栄養素について、200字以内で書いてみて」とリクエストしたところ、数秒!で100点満点以上の模範解答。字句や文章にも不自然さはまったくない。なるほど小論文程度の課題なら一発で満点ゲットだ。

俳句などは得意だと聞いていたので、春の季語で10句作ってもらった。これも数秒!だったが、結果は散々。俳句になっていない。で、五七五の音節に合わせるよう指示して、再挑戦させた。リズムは良くなったが、俳句の概念がまだよく学習されていないことは判った(最近のバージョンで試しても似たり寄ったりの結果)。
 「I can’t watch TV in my bathroom. この英語は変ですか?」と聞いてみたら、『文法的には間違いではないが、文脈としては不自然だ』という回答。その理由として、『普通はバスルームでテレビを見ることはほぼないから、見ることができない、という言い方の方がむしろ不自然。ただし、特別にそれが許されるような状況があり、そのことが理解される文脈の中でなら、このような言い方も受け入れられることはあり得る』となぜか英語で回答してきた。内容は納得できる。
 ついでに、別の「言語→画像4枚」ソフトで、言語を画像化するソフトも試してみた(これも無料の視聴版)。「赤毛の少女が、ニューヨークの混み合った道の真ん中に立っている」と入力したら、これも数秒で4枚のそれぞれ異なる絵を表示してきた。チャットだから、「ここをもっと○○に」などとやり取りを繰り返せば、どんどん自分の望む画像に近づけるだろう。ちなみに、わたしがこれから描こうとしている、あまり具象的でない絵を言葉で入力してみたら、どうしようもない絵ばかり提示してきた。

以上が初体験の記。特に画像ソフトに関しては、画家としていい印象を持っていなかったが、試してみるとこれは画家(特に具象画の)も利用するだろうと感じた。絵の好きな人がAIに“オリジナル”を描いてもらえるだけでなく、筆を持つ経験などなくても「画家になれる可能性がある」ことも分かった。あらゆる意味で、(人間には)もはや特殊な能力や才能は必要なくなる。そういう世界が目前に現れてきた、ということだ。いいのか悪いのかはわからない。ただ、いいことだらけではなさそうだ、という不気味さを直感したのも確かだ。