リテラシー

写真(YouTubeサムネイル)を見て。この、ブルーっぷり。ブルル、こんな陽気だっていいうのに寒気がするようなサムネイル。なんで、こんな陰気な動画なっちゃうのかと、自分でも悩むんですね。

誰も見てくれなくてもいいから、「自分は自分の仕事を全うしたい」と思うとこうなっちゃうのかな。「けじめをつけなくちゃ」と思ってるんだね、それが「昭和世代」の特徴だと言われるけれど。で、(肝心の)ケジメがきちっとつけられたか、って訊かれると「よくわかりません」っていうんだからどうにもならないサ。

それぞれの分野への適応能力を「リテラシー」というらしい。たとえば「情報」分野なら、情報への興味、関与の程度、適応能力など。だから、同じ「リテラシー」でも、「世界のセレブとの交際リテラシー」なんかの“能力ゼロ”でも、わたし的には全然困らないが、ワクチン接種だの、国や自治体への申請だのがインターネット経由だと、一定の「リテラシー」がないと、市役所へ行ってイライラと職員を怒鳴ったりする羽目になる。

そういうわけで「スケッチのリテラシー」らしきものを身につけさせたい(上から目線か)という(わたしの)願いは、現代の情報リテラシーという見地からは、“著しく”逸脱・時代遅れになってしまっている。現代ではデッサンの修練などより、カメラの勉強、をし、プロジェクターでも何でも使えば、いかに写実的なデッサンでも、誰にでもできる道が開かれている。それを文明の発達というんじゃないの?そ、その通りだね、うん。
 「シルエットから描く」なんて、タイトルがすでに、自ら時代遅れだって宣伝して回っているようなものだった。もっと情報リテラシーを身につけなくちゃだめですね。あ~あ。時間がないと言いながら、こうして意味ないことに時間も体力も浪費してしまっているんでしょうか・・。

AI と技術・感性

Apple-海を渡る(部分・制作中 04/03)

絵は上手にならなくていいと、わたしは何度も言ってきたし、実際にそう思っている。画家の中にもそう思っている人は少なくないと思う。

けれど、ネットを見ていると、むしろ細かい技術ばかりにニーズがあるように見える。「〇〇の描き方」「〇〇の使い方」のようなコンテンツの視聴率が高い。これが実際のニーズを反映していると思うか、チャットGPTに聞いてみると「ネットでのニーズが実際のニーズかどうかはわからないし、ネット上でもそれが本当のニーズではなく、単なる興味本位、好奇心だけであるかもしれない」云々。でもまあ、ネット上では少なくとも「技術」「ハウツー」「エンタメ」に興味が集中していることは確かだ。

「絵画(芸術)は技術だけでできるものではない」と謂われ、わたしもつい最近までそう思ってきた。だが、直近のAIの進歩を見ると、人間が「技術だけでないもの」をはたして判定できるのかが心配になってきた。「人間が望む『感性』も(数秒で、いくつでも)与えてくれる」ことが明らかになってきたからである。「自分の感性」などと言っているうちに、「AIに教育された感性」を自分固有のものだと思いこむ状況になりはしないか。

技術も感性も、方法は異なるが磨くことはできる。技術の方が磨きやすいが、いずれはどんな技術もAIに追い越されるのは確かだ。感性はどうだろう。いまのところAIは人間の域には達していないらしい。AIの登場で人間はいずれ仕事をしなくなる(できなくなる)。感性を磨かない人間はどうなるのだろうか。絵はだいぶ進んできた。考えがまとまっていないところがまだ少しあるので、やはり締め切りギリギリまでかかるかな。

花見に行く気がしない

「絵画の明暗」ビデオ用に制作

絵画の基本レッスン用ビデオ1本をYouTubeにアップしました。明日4月2日9:00に公開予定です。教室でやったことを簡単なビデオにしただけ。6分24秒。理屈は解っているけど、どうやって作品と結びつけるかは別問題で、その最も単純な例を描いてみた。

毎日忙しいが、どれひとつとしてかたちになってこない。例えばビデオ製作ではビデオという物理的なかたちはできてくるが、そういう意味ではなく、自分の仕事としてのかたちが見えてこないということ。単に「練習」の日々。いつまで続くのか、はたしてかたちになるものかはっきりしない日々は案外重苦しい。

一歩外へ出ると花見の列。近くのスーパーまで裏通りを通って買い物に行ったが、それでも普段の3倍の時間がかかった。表通りは渋滞。今の日本では、誰でも自宅から歩いて10分以内に桜があるのではないだろうか。花見ならそれでもいいのだろうが、わざわざこうして渋滞の中を出かけていくということは別な意味があるのに違いない。