夏祭り終わる

祭りのラスト、山車納め15分前

わが町(市だが)の夏祭りも昨日の日曜日、午後10時終了となりました。自宅のはす向かいに神社があるので、毎夕、笛やお囃子太鼓の練習がそこで行われていました。引っ越してきたときはうるさく感じましたが、いつの間にか慣れてしまい、聞こえてるのに聴いてない、という耳の使い方ができるようになってしまったようです。気分が沈み加減の時などは元気も出、悪い気はしません。

わたしが学生の頃、有名な東京の三社祭でも担ぎ手がいなくなり、祭りの開催自体がやっとやっとだったのを思い出すと、ひところの祭りブームほどではないけれど、隔世の感があります。コロナの後ですから(今もコロナは続いているようですが、もう医療機関自体がオオカミ少年のように思われてしまっています)、なおさらそう感じるのでしょうか。

日本の人口は年々縮小し、地方へ行くほどその幅は大きくなっているようです。祭りができるかどうかは、市町村が存続できるかどうかのバロメーターでもあるのかもしれません。広報を見ると当市も少しずつ人口が減少しているそうで、替わりに少しずつ外国人の方が増えてきていると感じます。もっとたくさん、いろんな国の人が住みやすい街になり、地方から国際性が育てばいいと思いますが、地域の閉鎖性を考えるとほぼ希望は持てません。
 祭りは地域の繋がりを作ります。暖かみのある地域は、たくさんのこうした交流を通じてできていくものだと思います。一方で、強い繋がりは強い排他性も同時に持ちやすいものです。野生動物の縄張り意識にも似た組織、身内意識のようなものでしょうか。それが、いつの間にかグロテスクに変質していくさまを、わたしたちはウクライナ戦争の始まりでもやっぱり見てしまいました。

大事なのは、「ひと」以外にありません。。祭りは一人ではできませんし、できたって一人じゃ面白くないでしょう。山車を引く人も、見るだけの人も、一人ではできない「何か良いもの」を共有できることが愉しいんですよね。再来年開催予定の大阪万博が、内外に今一つ不人気なようです。想像ですが、主催者には見積書しか見えてないのではないでしょうか。ひとりひとりを「人数」としか見ない社会には、未来は見えてこない。万博がそれを証明するイベントになりそうな気がしています。

ひとが死ななければならないことって

「黄色い壁」水彩 コットン紙

タレントでYouTuber の「りゅうちぇる」さんが亡くなったというニュース。自死(こういう言い方もどこか気になりますが)だという。活動自体も詳しくは知りませんでしたが、あの人懐っこい笑顔からは想像もしていませんでした。どんなにか苦しんだことだろうと、心が痛みます。

昔より、といってもいつのことと比べたらいいのかわかりませんが、現代に近づくにつれて理不尽な死が増えているのではないかという気もします。生命はもともと死を望んではいない(たぶん)ので、すべての死は理不尽なものだという言い方もあるかもしれませんが、わたしなりにいえば(全然定義になっていませんが)、よりよく生きたいという希望に反する死のことです。

ウクライナ戦争でも、多くの若い命が毎日数百人という単位で亡くなっているのをわたしたちは知っています。ロシア軍であろうと、ウクライナ軍であろうと、戦争への大義名分があろうとなかろうと、本当のところは、戦争で命を捨てたいと思っている人など一人もいないでしょう。戦争のような、もちろん本人がしたいわけでも、始めたわけでもなく、やらない方がいいに決まっていると誰もが理解可能なのに、そんなことで死ななければならないなんて、なんて理不尽なことでしょうか。けれど、個人では止めようもない大きな力が人を死に向かわせます。その力はどこから来るのでしょうか。なぜなぜなぜと問い詰めていくと、誰でもあることに思い至るでしょう。

病気、事故、自死で、私自身の周りでもすでにたくさんの人が亡くなりました。死は生命あるものに必ず訪れる宿命ですが、だからといって他者がどうこうしていいものではありません。どれほどの死者があろうと、それぞれの命はそれぞれ100%であって、それ以下になるわけではありません。「死」は本人でさえ触れてはいけないもの、なのです。なのに、人を簡単に死に追いやる「言葉」「制度」「欲望」。世界にはいま80億を越える人間がいます。その知恵の積み重ねが、これなんでしょうか。

わたしの健康管理

新緑の池

お暑うございます。わが町(市)でも「7月7日として」は過去最高の 34℃ だったらしいです(たとえ7月6日や7月8日が 38℃ だったとしても)。今日は午前中、市で行う特定健診(健康診断)に行ってきました。皆さんはちゃんと健康管理できていらっしゃいますか?

わたしの健康管理法(!)は、重視する項目が子ども時代以来の胃感覚や肌感覚などの「感覚本位」、つまり“テキトー”なのですが、それがわたしの身体に合っているようで、それなりに健康だと感じています(「それが危ない」はよく聞く話ですが)。

食べ物に嫌いなものは“あまり”ありません。というより毎日似たようなものを食べているので、そもそも嫌いなものは食卓に出ないようになっているからです。わたしの育った小さな半農半漁の地域では、今で言う「地産地消」の素材本位のものが中心で、現在のようなカラフルでおしゃれな食卓など、テレビでしか見たことがありませんでした。
 今はなんと言っても食卓がビジュアでルいいですよねー。それだけで食欲をそそります。お腹いっぱいになっても、キレイなスイーツなどがあると、女性でなくてもその色とかたちに誘われて一口だけ試してみたくなります。「食欲」があるかどうかは健康管理の大事な観点です。健康な身体だからこそ食欲があるわけですからね。お腹がすくまでは食べないことも習慣になっています。

もうひとつの面、精神面での健康管理になると、知的な刺激の程度や、脳の休息の時間などカロリーを計算するようなわけにはいきませんから、事実上コントロール不能です。
 この面では私のバロメーターは「睡眠」だけ。「睡眠」に関してはいろいろありましたが、最近では何の薬も飲まずに眠れるようになっています。睡眠障害の原因が分かっていること、忙しさに押されて悩んでいる時間が無くなったこと(それはそれで問題だけれど)が、今のところ眠れている理由のようです。