陰影

編集中の動画「つるバラを描く」から

「影を落とす」という言葉がある。文字で書くとき、「陰」は遣わない。「陰」は日向(ひなた)に対して、日の当たらない側を指す語で、そもそもかたちを持っていない。間接的にしか視覚化できないのだから“落ちようがない”。

一方、「影」は光に照らされた物体が、( 陰の側に)そのかたちを視覚的に“投影された”もの、文字通り「投げだされた=落ちた」ものである。時期、時刻によってかたちも変わる。シャドウとシェイドの相違だ。

「(戦争が)人生に影を落とす」というような言い方は、両方の“感じ”を持った比喩だが、現実問題として今度のウクライナ戦争では、ウクライナの人々はもちろん、兵として戦争に駆り出されたロシアの一般人、その家族はどんな気持だろうとも思う。YouTubeなどをみると、ウクライナへの共感は解るとしても、ロシア兵をまるで“虫けら以下”ででもあるかのように扱っているものが少なくない。かつての戦争で農村から招集された多くの日本兵がそうであったように、彼ら一人一人が皆ウクライナ人を殺そうと思って銃を取ったわけではないだろう。ブチャ等での虐殺などは見過ごせないが、そうした見方もまた、戦争が私たちの心にも影を落としているからなのだろう。

「健康」をはじめ、あらゆるものが私たちの人生に影を落とす。それとは気づかないうちに、あるいは気づきながらも日々の行動をそれらに掣肘(せいちゅう)されていたりする。どうにもならないこともあれば、気づくことで変えられることもあるだろう。立ち止まり、自分の影を見ることも時には必要かもしれない。

なんとも言えない気分

5月8日午前アップロードしました。

連休の半分の日数を使ってこのビデオを製作。ほかにも1本作ったので、六本木の国立新美術館へ国展を見に行ったのを除けば、連休はすべてビデオ編集に遣ってしまった。制作中の6号のテンペラの新作も途中でストップ。それでも連休後のアップロード。

いまAIだけで完全ビデオ製作をすることが始まっている。ビデオを作るのにカメラさえ要らない。スマートフォンをカメラにして?ではなく、まったくのカメラ無し。カメラ不要なのだからもちろん他の撮影機材もそれらの技術も要らない。動画編集ソフトも要らないから編集技術も時間も無用。必要なのはとりあえずパソコンとAIソフト。

もうひとつ必要なのはアイデアだが、それさえ“不可欠”ではない。たとえばタイトルを「夏の浜辺で夕方を過ごす”」としよう。大雑把にストーリーを「文章」で書く。
 するとAIがそのストーリーに基づいた「台本」を数十秒から数分のあいだに提示する。それにあった写真(絵でもよい)、または動画もついている。台本を誰が読むか、キャラクターを選択。声の質や話す早さも調節できる。テロップも提示してくれるし、フォントも自由に選べる。気に入らないところは書き直しできる・・・etc.
 こうして数分~十数分で、手持ちの写真一枚さえなくても1本の動画が完成する。当然自分の写真を使うこともできるから、誰でもその動画の主人公になることに手間はかからない。しかも、できたビデオの著作権(意味があるかどうかは別として)は自分のものだ。もしかするともう皆さんも、知らないうちにAIの作った動画をすでに見ているかもしれない。

わたしがこのビデオにかけた時間や、これまでの練習期間は無駄だったの?と言いたくなるような情けない気持ちになる。けれど、あっという間にほとんどの動画がそうなるに違いない。努力など、誰だってできればしたくないはずだから。
 先日も書いたが、アメリカの葬儀社だったか、故人の写真や生前の声があれば、故人と家族がビデオで『会話すること』がすでにビジネスになっている。会話の内容は、故人が亡くなった後、つまり「現時点」のこと。故人が書いたり話したりした文章・資料などが残っていれば、そこからその人らしい話の内容、話し方の癖まで再現するという。100年前の先祖と2023年の今日の話題について会話できるように「なった」のである。一歩深く考えると恐ろしいことでもある。
 目先のことを考えても、テレビ局も潰れるところが出るだろうし、映像技術者もおおかたは失業するだろう。“AIが人類の未来を拓く”という人と、“パンドラの箱は開けられてしまった”と考える人はまだ半々らしいが、今のところわたしは後者である。

スピードと“いいね”

一見アジサイに見えないが、よく見るとたしかにアジサイの仲間だ

情報の発信力が大事だと、企業や自治体だけでなく個人に対しても言われる時代。どんどん新しい機材が開発され、パソコンのことなどほぼ知らなくても、世界中へ発信することが誰でもできるようになった(たとえばTwitterなど)。

一方で、発信された情報を吟味する力、いわゆる情報リテラシーの方は、「自分を護るためにも必要だ」というだけでどうも具体性がない。その方法もその養成法も「本人任せ」か「いろいろ勉強(経験)して」というばかり(だとわたしには思える)。言う方もたぶんどうしたらいいかわからないのだろう。

だから(?)発信量が異常に大きくなる。発信するのは「認知されたい」からであるから、1回よりは10回、100回よりは1万回発信する方が有利なのは当然だ。1回の情報発信に丁寧に時間をかけるより、不満足でも100回の方が良く、相当不満足でも1万回、というふうに流れていくのも、ある意味で自然。そしてどこかで“いいね”を貰えたら(反応があったら)そこに集中する。中身よりスピードが最優先だ。
 “いいね”を出す側、つまり受信側には「リテラシー」がない。そういう状況で、たまたま気まぐれに 反応する。そうはいっても1万回だの100万回も“いいね”がつくのは、やはりそれなりの説得力があるのではないか、と多くの人が思うから、そこで情報のサイクルができあがる。
 でも、現代では、たとえ1億回再生されたビデオでさえ(そんなのももう珍しくない)、それを覚えている人などほぼいない、どころか数日後にはもう忘れられていく。それのどこに「説得力」なんてあるのだろう。発信側の単なる思い込みとどこが違うというのだろう。

10人に手紙を書くのは大変だ。内容が混み入ってくれば1通の手紙にも何日もかかったりする。親身なものであればあるほど、ストレスにもなる。そういう状況は(上記の事情で)現代では歓迎されないから、チャットGPTにでも、なるべく丁寧かつ決して『儀礼以上ではない』手紙を「自動で発信」してもらうのが一番よい。なにより、そんな手紙を書いたって“いいね”は貰えない。スピードがいのち。いいねが貰えなければやる価値がないのである、“いいね”そのものの価値を問わない限りは。