「美しさ」について

ビデオ「カフェのスィートピー」のワンカット:(この瞬間が楽しい)

あなたはどんなとき、どんなものを美しいと感じるのでしょうか?美しさを感じる対象は芸術のようなもの以外、たとえば風景のようなものはもちろん、人間の顔、表情あるいは声そのものだったり、モノではなく行為、あるいは数学や化学式まで、あらゆるものが対象になってもなんの不思議もありません。多くの人が醜(しゅう・みにくい)と感じる対象のなかに美を感じとるひとだっています。

人間以外の動物も「美しさ」を感じたりするのでしょうか。鳥の求愛行動や飾り羽などを見ると、そういう感覚はあるのかもしれないという気持ちになりますね。現生人類とネアンデルタール人はある時期共存していたと言われています。ところがその後ネアンデルタール人は絶滅してしまいました。彼らの絶滅と現生人類の継続を分けた原因は何だったのでしょうか。

それは「美」の概念だったのではないか、という仮説があるそうです。「美しさ」は多くの人にとって、生きていくうえで必ずしも不可欠な概念ではないと考えられています。現代では「美に現を抜かし」ていると、むしろ生きていけなくさえなりそうですが、それが人類を絶滅から救ったとはどういうことでしょうか。
 仮説は「きれいな貝殻の発見」から想起されました。。海からはるかに離れ、しかも食料的な意味もほとんどない、小さくてきれいなだけの貝殻が、現生人類の遺跡からはたくさん出土するのに、近くにあるネアンデルタール人のそれからはまったく見つからない。それはなぜか、というのです。
 不要であるのに誰もがある種の「感動」を持つ。誰もがそれを味わいたい。それは確かに「美」の概念と言えそうです。それを持つものと持たないもの、やがてそこに「象徴性」が生まれ、「美」を持つものが権威を勝ち取り、上下関係となり、やがて社会としての構造を作ることにつながったからではないか。まあ、それが仮説のおおよその内容です。

「生きていくうえで不可欠ではない」?本当でしょうか?仮にいまある「美しさ」について、上に述べたことがらの諸々をすべて剝ぎ取ると、どういう世界が見えるでしょうか。そう、いまウクライナ戦争で露わにされた世界、たとえば激戦地といわれているバフムトの現状がまさにそうではないでしょうか。あの風景が「不可欠なもの」を追求した結果なのでしょうか。
 「美しさ」と声に出すとき、心のどこかにある種の反感というか、「世の中、きれいごとだけじゃ済まされない」という大きな声も同時に聞こえてきて、口にするのをちょっと躊躇してしまいます。でもやっぱり、それを求める心を失ったとき、人は戦争しか選択することができなくなってしまう、そんな気がします。美しさを求める心が辛うじて戦争を止めている、そんな危うさを感じます。「生きていくうえで本当に必要なもの」。自分のこころを静かに覗き込む時、それがおぼろげに見えてくるような気がしています。

戦争をするヒト、動物を助ける人

時々だが、動物を助けるビデオを見る。路肩に捨てられ、栄養失調で餓死寸前の子猫だったり、泥沼にはまった像や鹿だったり、プラスチックなどの異物を呑み込んで食物が摂れなくなった蛇や亀、脚に釣り糸が絡まって魚をとることができなくなったカモメや猛禽類などなど、動物の死の様態も様々だが、人間が原因であるものについては、人間が助けた映像を見ると、どこかホッとするものがある。

野生の肉食動物は狩りをしなければ生きていけない。イヌワシは毎日1キロの肉を食べなければ身体が弱り、飛ぶ力を失って、結局は死ぬしかないという。肉屋で調達するように、ちょうど1キロの肉が毎日あればいいのだが、そうはいかないのが野生という環境だ。今日の1キロの肉にありつくためには、たとえ相手が体重50㎏の狼でもチャレンジする以外に生きる途はない。狼もまた同様に腹を空かせていて、たとえ1㎏でも肉を口にしなければ、明日のわが身の保障など何一つない。まさに双方必死。文字通りの食うか食われるかの戦いになるわけだが、これは人間的な意味での「争い」ではない。争いは「同種」の「利権をめぐる戦い」のこと。人間から見ていかに激烈であろうと、それは「食餌」行動以外のなにものでもないのである。

私たち人間は、野生の肉食動物のように毎日獲物を探して歩き回り、狩猟中に獲物である動物から反撃され、瀕死の重傷を負うリスクを犯さなくても、お金さえあれば1㎏だろうと10㎏だろうと欲しいだけの肉を手に入れる事ができる。人類だけが手にすることができた「文明」というもののおかげである。
 動物と人類との大きな違いは「貯金・貯蓄」であるともよく言われるが、確かにそうかもと思うところがある。(肉食)動物の一部には、クマヤトラなど死骸に草や土をかけ、他の動物から隠して数日間の狩猟のリスクを下げる「備蓄」的な行動をとるものもあるそうだ。が、大体はほぼ他の動物との分け合いになる。他の動物もまた、生きるのに必死だから。

ヒトだけが戦争をする。戦争をする理由は「どうしたら貯金・貯蓄」をより大きくできるか、である。自分だけが、より「豊かで、安全に」暮らすためにはより大きな蓄えと、他人をできるだけ遠くへ(できれば永遠に)追いやることが(本能的にも)効果的だ、と感じられるのだろう。「安全保障」という名の縄張り争いの、最終的なゴールだ。
 文明によって作り出された「富(豊かさ)、安全」というイメージ、それを「発展」させることが「文化」の使命であり、その論理の先に戦争が生み出されたのだとすれば、矛盾であるだけでなく、それ以上に滑稽でさえある。その「文化」が、一方で戦争ををストップさせようともがいている図は、確かにシビアな問題ではあるが、俯瞰的に見れば自分の尻尾を自分が追いかけているような、馬鹿馬鹿しくも哀しい、人類の終末を見ているような気分にもなる。

ランプに灯をともす人

英国ロンドンで、街灯をガス灯から電灯に替える案に対して、残すべきだというキャンペーンについての記事を、BBCワールドニュースで見た。ロンドンのウェストエンドと呼ばれる地区(ウエストミンスターシティ?)にある275個の古いガス灯を電気に、すでに電灯に置き換わった30個をLEDに替えるということにまつわるストーリー。

メリーポピンズ、マイフェアレディやシャーロックホームズの世界に我々を連れ戻してくれる、それがロンドンという「生地(fabric)」の一部だという、“いかにも”な意見も紹介されていて、当局もその雰囲気を壊さないよう、「ガス灯のような効果」をアピールしてしているようだ。すでにLEDに交換された“ガス灯”の写真も載っているが、もともとを知らないからわたしには判定の仕様がない。
 ロンドンには15000を越える街灯があるらしいが、そのガス灯に毎夕灯を点けていく仕事をしていた老人がいよいよリタイアする、という別の記事もだいぶ前に見たのを思い出した。それも、いかにも“英国らしさ”を感じさせる、いい記事だった。

BBCだから、なにより写真、映像がきれいだ(ちなみにナショジオも同じ理由で、もう数十年購読している)。そこに映る人々の表情も素晴らしい。英文記事が読めなくても、インタビューが全然聞き取れなくても、それを見ているだけで癒される。
 イギリスは古い国だが、世界の流行の発端を創りだす新しいアイデアの国でもある。たとえばポップアートやロックンロールなど、歴史の深さとそこに生きている生活と思想との重なり方が、同じように古い歴史を持つ日本とはどこか似て非なるものを感じる。外からうわべのきれいごとだけ見ている面もあるだろうが、同じように保存キャンペーンを取り上げるにしても、すぐに「反対運動」としてだけ報道したがる日本のマスコミに、一灯一灯ランプを灯してあるく老人の、なんとも言えない「人間の顔」は映せないだろうな、と思ってしまう(写真を載せたいが、権利の関係で無理)。