世界

     「ムーン・カプセル2」2010  そういえばカプセルもシェルターも「閉じ」ていますね

おはようございます。いま2023年7月3日(月)の朝です。お元気でしょうか。わたしは元気、と言いたいところですが、「病気ではありません」という方が正直なところです。一昨日あたりからの暑さもあるし、皆さんの多くもそんなところかと推察します。いまビンビン元気な人を見るとちょっとつらい気分になるかもしれません。

日本のメディアにニュースを報道する力がなくなったといわれてもう久しいのですが、最近はニュースと天気予報との区別もできなくなっているようです。気温が30度を越えればニュースになり、大雨が予想されると言えばニュース番組の冒頭で取り上げます。しかも、それを連日ニュースで取り上げることになんの疑問も感じないかのような報道姿勢と視聴の状況に、ある種の絶望感さえ覚えます。
 フランスで18歳の少年を警官が射殺したことを巡って、大きな暴動に発展、広がっていることを日本ではまるで対岸の火事、ニュースではまともに取り上げず、あってもごくわずかのようです。大谷翔平選手がヒットを打ったかどうかは出場の度ごとに、ホームランが出ればスポーツコーナーではなく“堂々の”ニュースです。「ニュースで世界を知ろう」などと、NHKをはじめメディアが子どもたちに呼びかける、その「世界」というのはどんな世界なんでしょうか。

おそらく、「喜ばれること」こそが、少なくともいまの日本では「ニュース」の基準であり、定義なのでしょう。わたしこそ周回遅れの、狭い意味でのニュース、ジャーナリズムのイメージに囚われているのかもしれません。メディアは企業であり、「正義の味方」ではありません。ましてや顧客でもない「人々の味方」などではありません。ジャーナリズムはその企業の宣伝の一部分であり、スポンサーと顧客のご機嫌第一と考えれば、すべてのつじつまは合うのです。それが「世界」の意味なのでしょう。
 「少年よ、有名人になれ、有名選手になれ。金持ちになることが勝者になることだ。それが世界というものだ。」そういうメッセージなのではないでしょうか。

お金がすべて、という世界観を、少なくとも“世界の”過半数は(口に出すかどうかはともかく)支持しているでしょう。そして、その目的は自分だけの世界を「繭作ること」。芸術の分野で「自分だけの世界を創る」という言葉の意味とは方向性が正反対です。プーチン大統領がウクライナ戦争を始めた動機(と言われていること)ととても近いと思います。SNSなど、ソーシャルメディアが情報空間を格段に広げたのは間違いありませんが、まさにそのことによって、世界は一人一人の繭の中に閉じていくんだなあと、いまわたしは強く感じています。

 ※いつも長くて済みません。嫌なことを、嫌な気分にならずに済むようにと、つい長くなってしまうのです。人の気に入ることだけ書きたくなる気持ちも解らないではありません。

「今が愉しい」と言う「輝き」

汗血馬 ミクストメディア 2010

あなたは「今が愉しい」でしょうか。ごく最近、この言葉を何人かの人から聞くことがあって、それはどういうことなのだろうかとちょっと考えてみたのです。残念ですが、わたし自身は、今はそう言える自信がありません。

一人は数年前ガンを患い、一時は人前に出るのも嫌になり、鬱気味にさえなったそうですが、そこから発想を転換、ささやかながら充実感のある生活を楽しんでいるとのこと。一人は高齢ながら多趣味多芸の才を活かし、健康に注意しつつ飛び回る日々。一人は長い間難病と付き合いながら何度も絶望しかけ、小康状態を保ちながら絵を描く喜びを感じているとのことでした。他にも、おなじようにどこかで苦しい時期を乗り越え(あるいは渦中にありながら)、「今が一番愉しい」という人が何人かいます。

若い頃にもおなじような言葉を聞いていたはずですが、自分自身が老齢になってきた今はその聞こえ方が違ってきました。若い頃はそれを「小さな満足」と多少軽蔑的な思考でとらえがちでした。今は、時が経てばたつほどそれが「貴重なもの」なんだと思うようになってきたのです。「今が愉しいですか」という問いに答えにくい人、答える気持ちにさえなれない人、そういう人ほどそれがいかに貴重かを本当は深く感じているに違いありません。
 ウクライナでの戦争だけでなく、昨夜もたくさんの難民を乗せたボートが沿岸警備艇の目の前で転覆、100人近くも乗っていた子どももほとんど絶望的な状況だというニュースがありました。そういうことが世界のあちこちでずっと続いているのです。戦争のない日本でさえ、大雨、地震などで突然家を失い、放り出されるのを見ることが稀ではありません。“戦争できる”国にしようなど、愚の骨頂としか思えません。

今、好きな絵を描き、好きな音楽を自由に聞くことができる。そのことがけっして「小さな満足」なんかじゃない、ということがやっとこの歳になってわたしにも解ってきたということです。わたしは随分とぼけた人間ですが、それでも人間だけでなく、あらゆる動物、植物も「生きている」ということは、この瞬間でさえ実は命の奪い合いをしていることに他なりません。そこまで含めないとしても「今が愉しい」と言えることは、小さな満足どころか、この有限の地球の上では「奇跡」に近い輝きだと言っていいのではないでしょうか。

「ベゴニアを描く」をアップロード

「ベゴニアを描く」(前編)をアップロードしました。後編もご覧ください、と言いつつ、編集はこれから。なんでも後手後手のわたしです。

前回に続き、ナレーション無しで試しています。細々と解説を入れるのがいいのか悪いのかは聞く人によって様々だと思いますが、映像があるのですから、言葉による解説はやはり必要最小限、それもできるだけ耳を使わない方がいいのではないかと考えての試行錯誤です。

制作としてはわりに楽しくできました。理由は「アドリブが多い」から。YouTubeの絵画コンテンツの原則は(勝手に原則なんて言ってますが)、「超々初心者向け」に作ることのようです。多くの画家たちがYouTubeで初心者向けに、役立つコンテンツをたくさん載せていますが、それでも「難しすぎるんですか~?」とか、時どき悲鳴をあげていますね(笑)。
 そういう人に向かってアドリブなんて、解説しようもないのでただ見て頂くしかありません。描く側から言えば、それが「絵」であり「絵を描く理由」のようなものですから、それをそのまま見て頂くのが一番本質的だと思うのですが、YouTubeはなんでも解説してくれると思いこんでいる人からしたら、「不親切」「初心者をほったらかし」という評価になりかねません。いったん「不親切」というレッテルを貼られたらネットは怖いですから、なるべくそういうことは避けるようになってしまいますね。
 逆に言えば、基本は同じでも、画家たちは自分の作品を描くときは誰もYouTubeで見せているようには描いていないんですね。もっとずっと荒っぽかったり、スピードも何倍も速いし、見ている人が辛抱できないほどねちねちと描いたりしているはずなんです。

大脱線してしまいましたが、そんなわけで「青いカモメ」向けの動画になってしまいました。