雨が降らない

「カモメたち」 油彩 F120

雨が降りません。(大雨、水害で困っている皆さんには申し訳ありませんが)少しザアッと降って欲しいくらいです。庭のアジサイなど、特に水を欲しがる草花はぐんにゃりと首を垂れてしまっています。

こんなに雨が降らないのだから、首都圏の今年のダムの貯水率はどうかというと、全然問題ないのだそうです。少ないところでも80数パーセント、利根川水系では93%と、天気予報で言っていました。山の方ではわりに降っていたんですね。

しかし、平地で雨が降らないということは、それだけ気温も高くなるということで、毎日毎晩クーラーが使いっぱなしになるということにもなります。グリーンカーテンも水あってのこと。水を汲み上げるにも電気が必要です。適度な雨のあることがいかに幸いなことかと、つくづく感じます。
 目の前に水があってもそれが泥身では飲むことも使うこともできません。洪水であふれた水はただ引いていくのを待つしかありません。温暖化の影響で海水の量は増え、水没する国や地域が出始めています。

異常気象も温暖化の影響があると言われています。日本では2050年までに二酸化炭素の排出量を「実質ゼロ」にする、「カーボンニュートラル」を宣言しています。排出量をゼロにするというのは、植物などに吸収される量と経済上発生する量とを同じにする、という意味で、まったく発生させないということではありません。
 経済産業的にはとても達成の見込みは無さそうですが、皮肉なことに少子化が進み、人口減による産業の衰退が進めば、達成可能であるかもしれません。そういう意味では「少子化対策」と「温暖化対策」とは矛盾しかねません。
 「知恵」を結集することが必要です。知恵のもとは知識、事実を知ることですから、研究をもっと深めることが大切なのは間違いありません。一方で、温暖化そのものの研究だけでは、研究自体も進みません。新しい観測機器の研究・開発も不可欠ですし、あらたな角度からの発想も重要です。どれか一つだけ突出すればいいというわけではないのです。
 でも、日本では特定の研究に、特定の期間しかお金を出さない政策を実施中です。研究費など、日本のGDPから見れば微々たるものですが、それを税金の使途の下位に置く理由は、あえて言えば政治(家)に選挙から次の選挙までの期間より長い、長期的(?)なビジョンがないからでしょうか。種をまき、水を遣るのが大変なのはわかりますが、もう枯れかかっていますよ。 

危険な暑さ

「ハマナスの花と実」 水彩

暑いですね~と、今年すでに何度言ったことでしょうか。暑いという言葉を口に出すと、本当に暑いと感じるので、「暖かいね~」と言うようにしていますが、すると2~3度低く感じるような気がするから不思議です。皆さん、お元気でお過ごしですか?

それなのに、ニュース・天気予報では最近「危険な暑さ」を連発しています。耳にするだけで2~3度上がるような息苦しさを感じますが、一種の「警報」ですから、仕方ありませんね。スマートフォンにも連日「外での運動は控えましょう」「急ぎでない外出は・・」などの公報が着信します。

ニュースなどによると、「危険な暑さ」は世界中に広がっているのだそうです。北アフリカで発生した熱波「カロン」によって、イタリアなどではすでに40℃以上の気温が数日続いており、さらに数日中に、ローマでヨーロッパの過去最高気温48.8℃を上回りそうだと言われています。中国・新疆ウイグル自治区ではすでに50℃越えを記録したとか。正直言って想像もしたくない気温ですね。
 そういうところで、すべての人がクーラーを使えているかといえば、たぶんそうではないでしょう。クーラーのない人にとって(故障中あるいは経済的その他の理由で使えない人にとって)、本物の「危険な暑さ」だと思います。十年ほど前だったか、同じような熱波がヨーロッパや南北アメリカ大陸を襲った時があり、その時も大勢の人が亡くなったという記憶が甦りました。
 ウクライナ南部では、ダムが破壊されたあとの洪水の影響でコレラなどの感染症が発生し、塹壕などさらに劣悪な環境の中で蔓延しかかっていると報告されているようです。“戦争などしている場合か!”と思いますが、それを止められるのは世界中でたった一人、狂ったプーチン氏だけというのが二重に恐ろしい現実です。

 暑い日差しの中で海水浴をしながら、海岸べりに群生しているハマナスの実を採ったりした子どもの頃のことなど、この異常な世界の中ではまるで夢の中の出来事のようです。いずれにせよ、夏はまだ始まったばかり(確かまだ梅雨明けもしていなかったはず)。どうぞ“ご無事に”この夏をお過ごしください。

夏祭り終わる

祭りのラスト、山車納め15分前

わが町(市だが)の夏祭りも昨日の日曜日、午後10時終了となりました。自宅のはす向かいに神社があるので、毎夕、笛やお囃子太鼓の練習がそこで行われていました。引っ越してきたときはうるさく感じましたが、いつの間にか慣れてしまい、聞こえてるのに聴いてない、という耳の使い方ができるようになってしまったようです。気分が沈み加減の時などは元気も出、悪い気はしません。

わたしが学生の頃、有名な東京の三社祭でも担ぎ手がいなくなり、祭りの開催自体がやっとやっとだったのを思い出すと、ひところの祭りブームほどではないけれど、隔世の感があります。コロナの後ですから(今もコロナは続いているようですが、もう医療機関自体がオオカミ少年のように思われてしまっています)、なおさらそう感じるのでしょうか。

日本の人口は年々縮小し、地方へ行くほどその幅は大きくなっているようです。祭りができるかどうかは、市町村が存続できるかどうかのバロメーターでもあるのかもしれません。広報を見ると当市も少しずつ人口が減少しているそうで、替わりに少しずつ外国人の方が増えてきていると感じます。もっとたくさん、いろんな国の人が住みやすい街になり、地方から国際性が育てばいいと思いますが、地域の閉鎖性を考えるとほぼ希望は持てません。
 祭りは地域の繋がりを作ります。暖かみのある地域は、たくさんのこうした交流を通じてできていくものだと思います。一方で、強い繋がりは強い排他性も同時に持ちやすいものです。野生動物の縄張り意識にも似た組織、身内意識のようなものでしょうか。それが、いつの間にかグロテスクに変質していくさまを、わたしたちはウクライナ戦争の始まりでもやっぱり見てしまいました。

大事なのは、「ひと」以外にありません。。祭りは一人ではできませんし、できたって一人じゃ面白くないでしょう。山車を引く人も、見るだけの人も、一人ではできない「何か良いもの」を共有できることが愉しいんですよね。再来年開催予定の大阪万博が、内外に今一つ不人気なようです。想像ですが、主催者には見積書しか見えてないのではないでしょうか。ひとりひとりを「人数」としか見ない社会には、未来は見えてこない。万博がそれを証明するイベントになりそうな気がしています。