花はどこへ行った

「海辺にて」水彩(制作中)

BBC記者のウクライナ戦争最前線、ウクライナ側からの現地取材のワンシーン。兵士の傍に行きつくまで、ほんの少しの時間ですが、周囲の風景もカメラの揺れの中、視界にはいってきます。腰くらいの高さでしょうか、わりに背の高い草が、畑の中の小さな道のわきにずっと生えていて、そこに白い花がたくさん咲いて微風にゆらゆら揺れています。その花の下で、兵士は腹這いになって銃を連射しているのです。映像を見た瞬間、思わず「花はどこへ行った」のメロディーを思い出しました。

「花はどこへ行った」は、ベトナム戦争の反戦歌として、当時は世界中の若者たちに歌われました。この曲を作ったピート・シーガーは、ロシアの作家ショーロホフの「静かなドン」の一節に出てくる、ウクライナの民謡に触発されたのだそうです。両国に深く関わるこの歌こそ、いまロシアとウクライナの若者たちに最も歌って欲しい曲かもしれません。
 この曲は、戦争の当事者であるアメリカの、若い人たちのあいだであっという間に広まり、その広がりの中でアメリカの「敗戦」として20年にわたるベトナム戦争は終結したのでした。

アメリカと同じように、ロシアから反戦の意識が広がり、戦争の終結へと向かうことができるでしょうか。ぜひ、そうあって欲しいものですが、今のロシアを見る限り、反戦意識の高まりから終結へ至る道すじは想像もできません。どちらかがギブアップしない限り、1年や2年で終わるとは思えない状況です。
 ヨーロッパのの歴史をサラッと見ただけでも「30年戦争」とか「100年戦争」などの文字が見えてきます。昨年アメリカが撤退して、一応の結末を出したばかりのアフガン紛争も20年かかりました。ベトナム戦争も20年です。シリア内戦も10年以上経って、現在も続いています。この戦争もそのくらい長期にわたる可能性があると覚悟しておく必要があるかもしれません。

たくさんの命と、ドブに捨てるような莫大なお金。それをこれからの人間たちのために遣ったならば・・と誰もが思っているはずなのに、その思い、その花はなぜいつまでも、待つ人のところへ届かないのでしょうか。

魅力

ある日、円覚寺にて (水彩)

久しぶりの「曇り空」。ここ1週間以上ほぼ晴れ、毎日猛暑日でした。そちらはいかがでしょうか。暑さにもだいぶ慣れてきたとはいえ、夕方になるともう疲れて、夜は仕事も勉強もできない。そんな日が続いていました。今日は明け方、雨が降る予報でしたが、予想通り “空振り” ならぬ「カラ降り」の様子。とはいえ、曇っただけでも十分嬉しい。

わたしが魅力を感じるのは、やはり「情熱」でしょうか。どんなものでもいいのですが、機械的ではなく「情熱的」。それが感じられるとき、そのオーラを浴びて自分も熱を帯びてくるように感じます。わたしに力を与えてくれるのです。

それがわたしやわたしの作るものにあるならば、どうやって魅力を持たせるか、なんて考える必要はきっとないのでしょう。情熱を持っているか、どれだけ情熱を注いでいるか、それだけを正直に自分の心に照らせばいいだけなのかもしれません。

AI は何も解ってはいない

円覚寺。こういう描き方の方が好きだな

暑いですね。こちらは今日も最高気温37℃の予報です。エエ~ッ!とかなりそうなものですが、すでに38℃はもうおなじみ。39℃以上も何回かニュース・天気予報で耳にしているのでもう誰も驚かない、というのが驚きです。

時どきAI とチャットします。わたしがAI に慣れるためです。チャットしているうちに、どうもAIって質問されたことの意味が分かってないなあ、と感じることが多くなってきました。単純な質問には驚くほどのちゃんとした文章で回答するのですが、ちょっと細かい部分を再質問したりすると、文章だけが普通で、中身の抜けた“頭の悪い”回答が繰り返し返ってくるのです。しかも「参考になりましたか?」と少し上から目線で。

その意味が、某新聞のデジタル版で読んだ、慶応大学の今井むつみ先生へのインタビュー記事で納得できました。それは簡単に言うと、こういうことです。
「メロンという単語がAIに記録されていても、それは単に統計上の1単語に過ぎず、その意味が理解されているわけではない。しかし、人間にとっては大きな果物とか、甘いとかいろいろな側面を含む経験や事実が、メロンというモノ自体と結びついて「(単語の)意味」を作り上げている(そのことを認知科学では「記号接地」というらしい)。それがAIにはない。(単語の覚え方が人間とは正反対)
 AIは「メロン」という単語の前後に、「統計上」どんな単語が並ぶかを学習しているだけだから、そこから外れると意味不明の文になったりする(記事を短く改変しています)」

やっぱりね、という感じです。画像生成AIでも似たようなことを感じます。最初は「スゴイ!」と驚きますが、何度かやると「思ったよりバカかも」と感じたりします。「考える」って感覚がないんですよね。次々と出してくるだけ。
 考えてみると、新世代コンピューターでも、それ自体は考えているわけではないのですね。ただ、巨大な記憶力を持ち(しかも絶対忘れない)、異様な早さの学習能力が、「統計」という武器を駆使して、「(論理的、合理的な)結論」をいち早く導き出してくれているということなのです。その人間なら1000年もかかるような、複雑な計算を数秒でやるとかね。その演算能力を言語生成に結び付けたのが、チャットGPTだったのですね。そういう素地がすでにあったから、あっという間に普及し始めています。
 AIはあくまで道具の延長です(今のところは)。もともとはわたしたちの「手」であり、その「手」をどう使うかはわたしたち自身の問題です。わたしたちがバカなら、AIは恐ろしい道具になる可能性ももっているわけですよね。