傾く「正義」

とうとうイラン戦争が始まった。アメリカとイスラエルによる共同先制攻撃。アメリカとイランの間では核開発を巡って交渉中と公表されていたが、攻撃態勢が整うまでの、ただの時間稼ぎだったのかとの非難もある。

明らかな「他国への武力行使」で、国際法(というものが現実に機能するのかどうかは別として)違反。一方、人権を抑圧されていた女性たちが狂喜し、街なかでも体制への直接的な攻撃を歓呼する映像(これがフェイクかどうかは判らないが)などもSNSなどで拡散されており、たとえばオーストラリアなどは攻撃を歓迎、支持を表明した。それぞれの関係や価値観を巡り、国際的な対応も割れそうだ。

(確認はされていないが)「市民3万5千人を虐殺した」ことに対する「正義」としての攻撃だ、とトランプは戦争開始の理由を正当化した。一方、ウクライナで多くの市民を拷問死させるなど、市民生活の基盤を見境なく4年以上もの間侵略し続けているプーチンには深い理解(敬意かも)を示すのみ。そこでは「正義」は別の意味を持っているのだろうか。「恣意的」正義のそしりはまぬかれない。
 さらにトランプは「国連は何もできないから、アメリカが代わりにやる」「国際法なるものはわたし(トランプ)には関係ない」とも公言している。要するに武器とカネを持っている奴が一番偉い、あとはそれに従え、という論理だろう。イランが核を持てば自分の立場が揺らぎ、イスラエルが核を持てば味方になる。「NPT=核不拡散条約」もまた、アメリカの恣意的利用のためにあるかのようだ。

けれど、「正義」や「公正」は「公平性」が前提だ、と考えているのはどうも日本人くらいのものらしい。アメリカ人にとってアメリカ贔屓は正義であり、公正なものらしいし、他の国々にとっても概ねそのようなものらしい。
 先日閉会したミラノ・コルチナオリンピックの採点競技でもたくさんの不満が噴出し、そのための調査も提起された。百分の一点差を争うフィギュアスケートで、自国の選手に8点とか9点とか特に高く評価した審判員が何人もいることが公表されたという。調査した科学的データによれば、最も公平なジャッジは「日本人の審判員」だったそうだ。特に注目を浴びたのは「自国の選手にむしろ厳しい」判定だったという。選手の活躍だけでなく、そちらの方でも高評価だという。さもありなん、と多くの日本人が納得するところではないだろうか。

非対称性

「子どもの顔」  ペン

今日(23日。天皇誕生日)は暖かい春の日になるという天気予報どおり、当地でも22℃まで気温が上がったようだ。確かに、わたしも半袖で!自転車を漕いでいた。「春一番」は日本のどこかで、昨日記録されたような気がするが、現実はまだ2月ですよ。黄砂も花粉の飛散も注意報だらけの「春の日」。今夏の恐ろしさを予見せざるを得ない。

タイトルの「非対称性」とは「対称性」がないということ。たとえばボクシングの試合なら、相手のパンチに対抗できるのは、自分のパンチしかない。手段としては同じなので、これは「対称性」の例。

同じようにボクシングの試合に例えるなら、相手のパンチに対して逃げ回りながら、「あいつのグラブには○○があるから反則だ」とレフェリー・審判員、及びメディアに訴えることで、(「反則勝ち」という)勝利を収める、というのが「非対称性」。
 例が悪かったかも。「オレは金も権力も持ってるぞ」と威張る相手に、「わたしは『恥』という概念を知ってるよ」と論理・価値観を変換するのも、「非対称性」であるらしいんだ。わたしも最近になって耳についた言葉なので確たる自信はないが、そんなところではないかと想像する。

「非対称性」という概念を知ることは、無用の摩擦、無用のストレスを軽減するキーワードではないか、と思える。数日前、ロシアの大学で、学生の軍隊への志願率が低いことについて、学長が「臆病で、恥知らずだ」と「諭した」ことについて、学生たちが「学問の自由」を主張したことが「非対称性」の例だというのは、間違いですね。

関心事

「肘をつく」 ボーっとしてるのが一番人間的なことだったりして

「誰がどんなことに興味や関心を持っているか」。世界中のビジネスがこの一点に集中しているといっても過言ではない。スマホを使い、パソコンで何かを検索したり視聴するたびに、その情報はデータとして抜き取られ、商品化され、瞬時に「○○いかがですか?」というCMのかたちで送られてくる。

CMならまだしも、ときにはその「関心事」を狙った詐欺まで現れる。データの収集、分析などにAIが使える時代になったからだ。もちろん、AIそのものに原因があるわけではない。結局は人間の欲望がそうさせている。

素知らぬ顔で人の周りを嗅ぎまわり、ゴミ箱から情報を拾い出し、スーパーやコンビニにまで跡をつけて何をいつ、どのくらい買ったかをメモする。毎日こんなことをわたしたちはされているのだが、目の前に人の姿をしていないために気づかない。何とも鬱陶しい世界だが、ヒトの欲望はそんなものでは済まさない。

いずれわたしたちの脳はAIに「最適化」され、標準化され、実装される。それを人類はどうやって防ぐのか。そこに今わたしの関心事がある。