生命の逞しさ

〇の部分が再生されたところ

9月15日のこのブログ「素手」の項で、水彩のカボチャを描いて載せた。実は、そのカボチャはちょっとネズミに齧られていたのである。描く数日前に農産物直売所で買ったものだったが、玄関床に転がして置いたら齧られたのだった。

齧られた部分は裏側になるように隠して描いたのだが、9月20日にもう1枚描いてみる気になってアトリエに持ち込んだら、なんとその部分が “修復” されているではないか!もちろんカボチャ自身の “自力” である。「カボチャは生きている」のである。怪我したあとのかさぶたのように、ちゃんと再生細胞が働いている。蔓から切り離され、どこからも栄養が来ないのだから、自ら蓄えた中から、エネルギーを使って修復したんですね。ちょっと感動してしまいました。

子どもの頃、実家で犬を飼っていた。それがまだ子犬だったころ、急に表に飛び出してトラックのタイヤに巻き込まれたことがある。運よく轢かれはしなかったが、冬だったので車はタイヤチェーンを巻いていて、その端が子犬の眼と鼻の間を激しく打った。子犬は家に飛び込むなり、下駄箱の隅の暗がりに縮こまってしまった。
 餌の時間になっても出てこない。クーンと苦しそうに泣くだけで2日くらいはそのままで、獣医などいない田舎のわたしたちにはどうすることもできなかった。ようやく空腹に耐えかねて下駄箱から出てきた子犬の左目は真っ白に濁っていて、顔も腫れているように見えた。目薬くらいは差したかもしれないが、家族全員、失明は必至だと感じていた。ところが、日が経つにつれ、その目がだんだん澄んできて、普通にものが見えるようになった(と思う)。その生命力(回復力)に驚いたことをよく覚えている。回復まで2.3ヶ月かかったかもしれない。

自然の風物が好きなので、動物をテーマにした雑誌なり、YouTubeなりを見る機会がある(捕食の残酷さをいたずらに強調するものもあり、そういう作者の視点そのものに辟易することも少なくないが)。そこでいつも感じるのは、人間以外のあらゆる野生の動植物には「医者がいない」ということである。瀕死の重傷を負おうが、病気になろうが、自己の再生能力以外に頼れるものは何もない。医療の届かない人々はこういう“野生” に近い状況に置かれているということになる。医療や健康食品などの発達は大いに喜ばしいことだが、本当の元である、生命の力をわたしたちは食べているのだなあと、あらためて思うことだった。

ときどき、詩人

キャンバスからCGスケッチ

ときどき詩人になるのがいい、と思う。世の中動くのが、少しどころでなく早すぎる。自分の周りを、壊れた走馬灯のようにグルグル早回しで回っている感じがしてならない。眼を閉じるか、あるいは目の前の小さなものだけをぼんやり眺める、そんな時間が必要ではないかと思う。いや、そうしないと、実は自分が死んでしまっていることにさえ気づかないまま死んでいるかも知れません。

「時々詩人になるのがいい」というのは、もちろん、詩人がのんびりして暇そうだという意味ではありません。単にのんびりリラックスすればいい、というわけでもありません。「詩人」はもちろん比喩ですが、画家でも音楽家でも、運動家(スポーツ)でも、何でもいいというわけではありません。やはり「詩人」がいいのです。

詩人は自分の感覚や周囲のことがらを言葉に置き換えていきます。”言葉に置き換える” ということが重要です。わたしたちは言葉で自分の考えをまとめあげているからです(そういう意味では数学者(科学者)でもいいかも知れませんが、わたし自身が想像できる範囲を超えています)。

あくまで比喩ですから、実際に詩を書く必要はないのですが、ほぼ詩を書くような気持にならなくてはなりません。それが難しいのは確かですが、それが出来なければ「走馬灯ぐるぐる」をずっと見ているしかありません。「詩人」は唯一そこからの脱出口なのですから。
 でも、なぜ詩人?とあらためていうと、なぜ脱出するのか、その結果どういう意味があるのか(あったのか)、詩と走馬灯の関係などを、言葉にして記憶しておく必要性、詩を作らなければならないからです・・分かったような解らないような。疲れていますね。

神経美学

「神経美学」という言葉、そういう研究分野があることを初めて知りました。芸術に対する感動が人間の身体に対する影響を研究する分野で、最近注目の学問なのだそうです。そういった分野の、心理学的な研究くらいはあるだろうとは予測していましたが、それが急速に発展しているとまではまったく想像していませんでした。

生成AIによる画像生成、文章生成機能の急速な発展とその応用がどんどん社会に浸透し始めるや、それまで冷ややかに遠巻きに眺めていた政府や財界、人文系分野の研究機関でさえ、今度は乗り遅れるなとばかりに、一斉に使い始めています。新しいパソコン、モバイル端末などには最初からセットされているようですし、既存のパソコンにもどんどんサービスされ始めています。そのスピード感に振り回され、ついていけない挫折感を持つ人々との溝も大きく裂け始めているように感じます。

とにかくそんな情報ばかり溢れていて、それに比べて芸術などはせいぜい生成AIによる著作権侵害を申し立てるだけ、と悲観していましたので、こうした研究は嬉しいことです。芸術に携わる人々の誰もが、芸術を愛する心が平和を求める力になることを知ってはいましたが、それらの人々の多くは政治とは距離を置くべきだと考え、結果として戦争を止める力は持ちえませんでした。 
 神経美学は、そういった主張、主義とは別に、人間の健康そのものに対する影響を研究するのですから、イデオロギーとか敵味方などにとらわれず、受け入れることができます。

もっとも、戦場で銃を撃ちあうこと、ミサイルに備えて日夜防空壕に避難する生活が身体にとって最悪であることが解っていてさえ、現実に数百万、数千万人の人々がそういう生活を強いられていることをみれば、なにをかいわんや、ですが。それでも、世界はAIだけで足りるわけではない、芸術がもっと社会的な力を持てば、平和の力になり得る(かもしれない)。そう思うだけでも、絵を描く筆に力が入るような気がします。