雪について思い出すこと

 

冬の下北(Simokita in winter)2012

下北の、いや下北に限らず雪の風景は美しい。モノクロームの世界とよく謂われるので、ついそんな風に思いがちだが、自分の体験をちょっと振り返れば、決してそうではないことを誰でも思い出すだろう。

先日、この雪の風景に触れ、なんだか忘れ物を取りに帰ったような気がすると書いた。たしかにそうなのだ。中学生自分にはほとんど勉強などせず、ウサギやヤマドリなどの罠かけに夢中になったり、その途中、スキーで危うく2度も遭難しかけたりしたことを、今回の帰省中毎晩のように弟や母と思い出しては話したものだった。それらは自分の体のどこかに沁み込んでいて、こんな雪を見ると自然に気持ちが昂ぶってくるのをくるのを感じていた。父のことがなければ、2、3日はウサギ罠でもかけに出かけたかもしれない。もっとも、それがなければ帰りさえしなかったに違いないが。

本格的に絵を描くようになったはじめの頃、いろんな色を使いこなしたあと、やはり最後はモノクロームだなあと何度も思ったのは、こんな風景を見てきたからだろう。いつの間にか生活に追われ、そういうことさえ忘れてしまっていた。私のことを「幻想作家」だと言った人がいる。それは恐らく当たっている。ごく小さな子供のころからなぜか自分でも そんな風に感じていたからだ。雪は幻想を育む。雪国は幸いである。

 

 

ウィリアム・ブレーク

ウィリアム・ブレーク 「ダンテに尋ねるベアトリーチェ」 水彩

ふとウィリアム・ブレークを思い出した。ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、非常に宗教色の強い作風の詩人・画家だ。版画職人でもあるらしい。彼の絵を初めて見たのは学生の頃、今から40年ほど前のこと。デッサンの狂っているような、ちょっと変わったデフォルメが印象に残ったが、詩人の余技だろうとタカをくくって、それ以上踏み込まなかった。

それから10年ほど経って、あるきっかけでイギリスに10日間ほど立ち寄れることになったので、イギリスの水彩画を少しだけ集中的に見ることにした。まずは常識的にコンスタブルとターナーが第一候補である。

まずはテートギャラリーへ。たまたま「ウィリアム・ブレーク展」が開催中。大した絵は無いだろうと思いつつも、ポスターを見ると何だか胸が騒ぐ。まあ同じ水彩でもあることだしと、少しだけ道草を食うことにした。これが思わぬ大正解。

ブレークの焼けるような熱い魂に触れた気がした。誇張ではなく、ほとばしる勢いに圧倒された。自分のやっていることはいかに気持の薄い態度であったかと打ちのめされる思いで、その作品群を見た。そのあとコンスタブルもターナーも確かに見たはずだが全く覚えていない。(東京でルオーのパッション全作品を見たときもそんな感じ。ルオー展会場から銀座の街へ出た時、街から色が無くなってしまったように感じたのを思い出す。)

最近まるで自分の絵に自信が持てなくなった(それはとても苦しいことだが、必ずしも悪いことばかりとは考えていない)。他人の真似をしているとは思わないが、五里霧中、どこに自分が居て、どこに向かって歩いているのか分からなくなったのだ。つい、どこかで他人のトレイルを辿りたくなる。そんな時、これからは「ブレークを見よ」と自分に言い聞かせよう。

ブレークの評価は高いが、万人に心地良い絵だとはとても思えない。息苦しいような、責められているような、誰しもそんな思いを少なからず感じさせられるに違いない。人によっては不快でさえあろう。それを突き破って進む、あの情熱。失ってはいけないものをいつも私に思い出させる絵なのである。  2011/10/28

こども作り大学?

「こども作り大学」の看板を、大学の建築学科棟で見た。一瞬「えっ?」という感じ。少子化でいよいよ建築学科でも受精や妊娠障害の研究でも始めるのか?目をこすってよく読めば「こどももの作り大学」。紛らわしい看板にちょっと驚いたぞ。

これが生涯学習講座の替わりにやりたいことの一つらしい。目的はともかく、方法論や先の展望も無いまま見切り発車して、赤字増産の責任を下へ下へと垂れ流すいつものパターンでスタートするようだ。一種の子供囲い込みを画策している訳だが、そんならいっそ本当に「こども作り大学」からスタートした方が確実かも知れない。

入学時の18歳までの学力の差に比べると、18歳からの可能性の方がはるかに大きいと思う。しかし日本では18歳の学力差で、ある意味では一生取り返せない差に分けられてしまう。会社も一度辞めるとすぐに社会の底辺に落ちてしまい、滅多なことではそこから這いあがれない日本社会。「諦めずに何度もチャレンジ」と学校でも社会でも掛け声だけは大きいが、本気になってそれを可能にするシステム・政策を作ろうなどとはしていない。切り捨てるだけ。ただ単にコストとしてしか人を見ない。人がどれだけの力を持っているかについて、想像力を失ってしまったかのようだ。

そんなわけで三流大学になると、そのレッテルを嫌って学生が来たがらない。定員を満たせない大学は必死に学生をかき集める。いつのまにか学生一人が「個性」や「可能性」ではなく、「授業料」そのものに見えてきても不思議はない。

学生が授業料にしか見えないような大学なら、さっさと退学し、一冊のスケッチブックを持って世界を見学して回る方がよほど有効な「授業料」になるかもしれない。「こどももの作り大学」で、小学生時分から将来この大学に親しみを持つように刷り込みをするなど、なんて浅はかで馬鹿馬鹿しく、情けない発想だろう。文科省による近年の理科系科目への、こどもの誘導策も同じ次元の発想だ。こどもは大人ほど馬鹿ではないことを知らない国は亡ぶしか道はない。  2011/10/23