下北の自然 / Wild life in Shimokita


水芭蕉は、下北半島を代表する「雑草」のひとつである。水芭蕉と言えばすぐ尾瀬と連想するように、高山植物と思っている人も多いに違いない。下北では海抜0mから、水さえあればどこにでも生える、やや「目障りな」雑草だ。

Skunk cabbage are one of representable weeds in Shimokita peninsula. Most people will associated them with alpine plants in Oze. They are grown everywhere wet over sea level.

「目障り」と言っても、水芭蕉それ自体を嫌っているというわけではない。それが生えている場所がヤチ(ヤヂ)、すなわち何の用途にも使えない湿地だということを示しているからだ。至る所でそれが見られるということが何を意味するかは、ご想像の通りである。

Skunk cabbage are by no means welcomed here as the place living them means useless land called “yachi” or “yaji”. In Shimokita peninsula, there are a lot of white flowers all over the place.

2012/5/1

 

 

四十九日 / 49th day

老部(おいぺ)待休所にて  Oipe memorial place

父の四十九日の法要で、下北・東通村に帰省した。4月29日、さらりと法要を終え、それまでの仮位牌を集落の待休所(念仏婆の為の集会所、祈念堂。恐山と近似の民間信仰的色彩が面白い)に移し、これで父も先祖の一人となった。

I’ve been Higashi-dori village for my father’s memorial celemony based on buddism in Shimokita. It means 49 days passed from his death. It is quite common and important custom in Japan. After this celemony, all of living member of his family are able to do ordinary behavior. And then his spirit turn to one of our ancestors.     2012/4/30

日本仏教では、死後49日というのはとても重要な意味を持っている。日本仏教では死んだ日を1日目とし、7日ごとに死者の生前の功徳についての裁判が行われるとする。初七日は最初の裁判となり、死者といえども「あの世での生死」がどうなるか、の最初の裁判が行われるため緊張する。そこで遺族が応援、援護しようと、最初のお布施を行う。お布施とは社会への寄付であり、必ずしもお坊さんに対して行うという意味ではない。要するに亡くなった故人の、社会貢献の不足分を遺族が代行するということだ。そして7日ごとに裁判が行われ、最終第7回目で結審する。審理は必ず7回で行われ、最終回が最も重要だ。ここでアウトなら死者は極楽浄土には行けず、地獄に落ちることになる。そのため遺族が死者に対して最後の、お礼としてのお布施を積んで、死者のバックアップをすることが重要になる。この後ではもうチャンスが無いのだ。49日の法要が最も大事だというのはそういう意味である。

“After 49 days from death” has very  impottant meaning for japanese buddism. They say that every death person must be on trial every 7 days after death about his contribution to society (it colled “kudoku” ) at their living time. If the judgement means too short, that death person can not go to Heaven. The 49 days mean the 7th trial. This is final and most impotant chance. S0 most bareaved family would like to help them from this living world. Actually we served gorgeous dinner and money to the buddist priest specially. Sometimes it seems that cost is very big money .

この法要は僧侶にとっても、収入源として極めて重要な意味を持っている。現代日本において、仏教は既に存在していないに等しいが、死者の葬送に関してだけは依然として大きな存在感を持っている。「葬儀経済」はいわば日本仏教の命綱なのである。しかも遺族の悲しみと、悲しみを相対化し、できるだけ心理的負担を軽く済まそうという社会的ニーズのはざま、そして温暖化による死体腐乱との時間的プレッシャーとの合間に、ドサクサ的ではあるが巨大な存在感を持っている。それが49日法要の現代的意義であるが、われわれ日本人は、葬儀に関しては問題化しないという、不思議な国民性を有しているのである。

This celemony is not only important for death person but the priest also on a viewpoint of economy. In Japan, real buddism seems disappeared already but it has strongly existance around the celemony like this. Economy with death celemony is a life-line for japanese buddism indeed. Although most of japanese feel death celemony is out of all problem.

ゴミの行方

下北のホッチャレ鮭 水彩 2012

ホッチャレとは「捨ててしまえ」という意味だろう。放っちゃえ、という音に似ていると勝手に考えている。産卵後の鮭のことだ。

産卵は、鮭にとって死と引き換えの大事業だ。産卵の成功は自分にとって確実な死をもたらすというジレンマを、鮭は一顧だにしない。凄いことだが、それ以前に物理的なエネルギーの消耗度も、私の想像力などとても及ばないレベルであるに違いない。

産卵するといわゆるサーモンピンクの肉色は急激に白っぽくなり、肉も脂気の無いパサパサになる。魚特有のぬるぬるした皮膚も一気にぬめりが無くなってしまう。人も大きなショックを受けると一夜にして髪の毛が真っ白になることがあると聞いた記憶があるが、それに近い状態なのだろうか?しかもすべての鮭が確実にそうなるのだ。もちろんそんな鮭などもう誰も食べはしない(一度だけ安い鮭を車で売りに来た業者がいた。近所の人が安いというのを聞いて、私はピンときた。あとで見せてもらったら案の定、知らない人をごまかせる程度のホッチャレだった)。それを食べるのは川のカニや水生昆虫の類。そうやって鮭の体はリサイクルされていくため、大量の鮭が死んでも、それで川が汚染されるということはない。つまり鮭の死体はゴミではないのだ。

昨日・今日と、父が何度か危険な状態に陥ったらしい。今日もいよいよかと思わせる電話が何度か弟から入った。夕方になって一応安定したようだが、予断を許さない。

しかし、兄の私は暢気なもので、今日も大学からの引っ越し準備に追われていた。今日現在で大学にはほぼ600枚の私の作品が片付けのために集められている。水彩やスケッチの類を含めたら膨大な点数になる。頭痛のする量だが、それでもこれまで引越しのたびにかなりの量の作品を処分した残りである。けれど、現存作品を見て、更に残すに値するかどうかは、はなはだ心もとない。もしかすると、これらは既にゴミなのかも知れない。

「人は死ねばゴミになる」という本があった。灰ではなく、ゴミと言うのであるから衝撃的なタイトルだ(読んだ記憶はあるが、中身は全く覚えていない)が、このあたりになると「ゴミ」の定義がそろそろ問題になってくる。

父が亡くなっても、それをゴミだとは、私は思わない。でも、鮭のようにリサイクルされずに、燃料コストをかけて焼却するという点だけに注目すれば、ゴミのように熱エネルギーさえ利用できないヒトの死体はゴミ以下である、という言い方もできよう。ましてや、残す価値さえない絵を作り出す私は、更にそれ以下の存在かも知れない。

ヒトは自分たちが動物の中では最上位だと、近年(人類史的に見て)とみに驕り始めているように感じる。ヒト以外の動物は殆どゴミを出さないから、結果的に最上位はゴミを出す量で決まったかにも見える。人間は生きて行くうえで絶えずゴミを作り出さずにはおかない、いわば地球の天邪鬼(あまのじゃく)なのである。

鮭の死は清々しい。ヒトの死、人間の死も、かくありたいと思う、ホッチャレの姿だった。   2012/2/19 日曜日