見てくれ

「手の習作2」水彩 もう少しきれいな手にしたかったかな

「見てくれの良さ」の「見てくれ」。見てください、という意味ではありません、念のため。でもまあ、もとの意味は同じことだろうと想像はつく。要は「うわべ」ってことですよね。

目を惹くものには、何かしら新しい何かがある。それ自体が新しいものでなくても、演出が新しいとか、久しぶりで新鮮に感じるとか、何かがある。それを、見る側が発見するのではなく、「ホラ、新しいだろ?」とばかりに、いささか押しつけがましいのが「見てくれ」の正体なんだろうと思う。

ネット上の情報、つまりビジネス情報は99.9%「見てくれ」であると思っている。情報は、ネット上にすべてがあるわけではないのに、いつのまにか情報=ネット上という錯覚が起きるほどに、逆に言えばスマホ上にないものは情報と認知されないようにさえなっているように見える。だから、詳しくは分からないが、何かを検索するというとき、ほとんどの人はまずスマホでインターネットを検索するに違いない。となれば、配信する側(多くはビジネス目的)は、まずその小さな画面の中で目立たなくてはいけない。「見てくれ」が悪ければその時点で負けなのだから。

見てくれだけでない、誰かにとって本当に中身のある情報は、発信側も受信側も、それを吟味する時間と知識とその他もろもろの努力が要る。つまり、つまり、そういうわけで、本当に自分が欲しい情報は結局自分の五感で拾い出すしかないのだろう。昔は自然に手に入った情報が、皮肉なことにこの情報の渦の中で、自ら頑張らないと手に入らないということを時々、実感する。そしてそれは、生成AIの登場でますます困難になっていくに違いない。人は、様々な意味ですでにコンピューターの僕(しもべ)である。生成AIがそれを絶対的なものにしてしまう未来しか、今のところ想像できずにいる。

世界は「お金」以外の価値を見出せない?

2023.11.07 東京・日本橋にて

今朝はかなりの雨だった。今日は3つの展覧会を回る予定で、しかも今日しか行ける日がない。10時頃には上がる予報だったので家を出たが、まだぽつぽつ残り雨が落ちていた。駅のホームで電車を待っていたら、また音を立てて降ってきた。

日中の東京は暑かった。日比谷線上野駅から東京都美術館までの間を歩く間でさえ、けっこう汗をかいた。それもあってか、都美術館までの距離をこれまでよりずっと長く感じた。脚力が弱っているんだろうか。3か所を回ろうと気持ちが急いでいたせいか、息がなんとなく苦しいのも気になった。埋め込んである心臓ペースメーカーの対応機能より、歩きのペースが早すぎたのかも。

たまに東京に出ると、東京は目まぐるしく変貌していることを感じる。東京といっても郊外ではそれほど急速には変わらないだろうけれど、地価の高い場所では、より利益率の高い用地にすべく、土地の所有者は脳の血流を最大限にして、金銭的にベストな借り手を探しまくっているに違いない。人間なら脳内血圧の高まりすぎをセーブするかもしれないが、今どきそんな危険を冒してまで手作業している個人、法人などないだろう。AIにはそもそも血が通っていないから、数秒で “その時点での経営常識” としての 「最適解」をたたき出してくれる、と考え、AIに答えを求めているはずだ。

けれど、“常識” なんて、当てになるものじゃない。人間の「常識」は個人個人によって違うものだし、AIが得意なのは『「確率」的に導いた答えを瞬時に引き出せる』ことであって、個々のケースに最適にマッチするという意味では、全然ない。
 要するに、(現段階では)人間が判断放棄、丸投げした部分を、AIが「仮に」判断して見せるのであって、貸し手、借り手ともに判断に自信がなければ、100%AIにお任せするしかない、ということだ。むろん人間の「自信」も危ういものだということはご承知の通りであるが。現代は、そういう綱渡り状態で物事が進んでいるが、一歩間違えば、この建設中のビルだって、廃棄ということがいくらでもあり得るのだ。そういう例は、ここ数年でたくさん見ているはずだが、なぜか目の前に「金がちらつくと」盲目になってしまうという、哀れなDNAを受けついてしまっているようだ。

明るい高慢さ

「Apple-丘の眺め」テンペラ  2004年

ポジティブ思考(嗜好かも)が、多くの人の深いところに沈潜して、ことあるごとに顔を出しては人を痛めつけることがある。わたし自身の中にもすっかり入り込んでいて、何か落ち込むようなことがあると、つい、「元気出さなきゃ」なんて無理してしまう。

いつもいつも明るく朗らかで、何にでも前向き、落ち込むこともなく、周りまで明るくする人。そんな、太陽みたいな人がかつてのテレビや漫画の主人公だったけれど、さすがに現代では、そんな間抜けた人間は主人公にはなれなくなった。

子どもは大きな夢を持たなくちゃダメだ。若い人は高い理想を持って世界に羽ばたかなくちゃいけない。ショボショボして、ちっぽけな自己満足などしているようじゃ(男の)クズだなんて堂々と人前で言う、恐ろしい時代があったけれど、そういう時代はもう過去のものになったんだろうか。そんなの余計なお世話だよ、って言える時代になっているんだろうか。そんなことはない。だってわたし自身がそう思っていた時があったし、今も心のどこかにそんな気持ちが残っているのが分かる。

子どもの頃、テレビを見るたびに「どうしてアメリカ(の白)人たちはあんなに明るいんだろう」と不思議だった。わたしの周りには誰もそんな人は居なかったが、テレビの中では大人も子供も皆活力に満ち、自由そうで、そしてやたらに誰にでもキスをしていたのだった(そういえば黒人たちのキスシーンは見た記憶がない)。
 あの電灯のような明るさと、民主主義はどこかで繋がっている、そんな気がしていたが、そうではなかった。あのポジティブな明るさは高慢さそのものでもあったのだ。ウクライナ戦争とイスラエル戦争のアメリカの立ち位置がそれを示している。
 負けないように強くなればいいのよ、ケチケチしてないで金持ちになればいいのよ、金持ちになれないのは努力が足りないからよ。そう言って、影と日なたを二分してきた人々の国、あの明るさに憧れてきたんだなあと、今さらに思うよ。