性転換-人間としての意味

「ポトスのある静物(制作中)」  水彩

YouTubeで「動物の骨格」などを眺めているうちに、ふとした拍子に「美容整形手術」のビデオを見てしまった。その流れで、さらに「性転換手術」体験者の(手術前後)ビデオまでつい見てしまった。なぜそうしなければならないのか、手術してもなお自殺まで追い込まれる現実などを考えると、相当種衝撃的な時間。それを笑いの中で見せてくれるなんて。

その数日後の7月10日、トランスジェンダーの女性が、手術なしで戸籍上の性別変更を認めるよう求めた家事審判で、広島高裁が必要な要件を満たすと決定した、というニュースがあった。この審理では特に相手のある訴訟ではないので、これで結審。申立人の主張は認められた。

ちょっと調べてみると、性別変更には現状5つの要件が必要だという。①2人以上の医師から性同一性障害の診断を受けていること ②18歳以上 ③現在結婚していないこと、未成年の子どもがいないこと ④生殖腺や生殖機能がないこと ⑤変更後の性別の性器に似た外観を備えていること、の5つ。このうち④と⑤を手術要件(⑤は外観要件ともいい、必ずしも手術によらなくてもよいが、これまでは多くの場合④と同時に性器整形の手術をする)というらしい。上の「性転換手術」は④と⑤に対応するための手術。
 7月10日の広島高裁での審理は、実は最高裁からの差し戻し審で、特に④の要件自体が2023年10月に最高裁大法廷で憲法違反と判断されていて、今回はこの判断を踏まえたもの。⑤については今回特に判断をしなかったので、今後に問題は残ることになったが、高裁判断では、「周囲が違和感を感じなければよい」と判断されたらしい。

人は欲のために生きている、というのはひとつの見方である。性転換も、広く欲望と言えばそのひとつという言い方もできるが、自分がもっと自分自身になろうとするだけの、むしろもっとも根源的、素朴純粋なものだと思う。少子化云々などという社会的な課題は、国や行政を通じてそれ自体あらためて捉えられるべき問題で、彼女ら(They)自身にその責任の一端を押しつけることは妥当ではない。大きくなったら大谷選手のようになりたい、という子どもの思いに、皆が野球選手になったら誰が他の仕事をするんだ、などとバカげた問いをぶつけてはならないのと同じこと。(長くなって済みません)

都知事選投票日も「思考停止の日」

「いやなことは忘れても困らない」  水彩

今日は都知事選の投票日。期日前投票では前回を上回っているらしい。ということは当日の投票率が下がるということでもあるし、第一この暑さでは出かけることができない人も少なからずいるに違いない。なぜ電子投票ができないのか、そこにも今の日本の問題が顔を出している。

先週金曜日、銀座から青山へと画廊を回ってきた。銀座で都知事選の応援演説をしているところにぶつかり、ちょっとだけ立ち見した。関係者が、「通行の邪魔にならないように」と声を張り上げていたが、あえて通行人の多いところを選んで演説しているのだから、邪魔にならないわけがない。

選挙制度そのものをおちょくって見せる政党もあれば、ほぼ習慣のように立候補する個人もあったりするが、今回は現職+政権与党VS野党候補、それに話題の新人が絡むという、典型的な従来通りの舞台となっている。そこにこっそり食い込もうとする寄生虫集団が見え隠れ(今や堂々と、だが)する構図も変わらない。変わらないのか変えたくないのか判らないが、有権者としては何も考えたくないというのが本音なんでしょう。いや、もしかするとそれがメディアの姿勢によるものかもしれないけれど。

諦めでもなく、投げやりでもなく、無視するでもないが何も行動したくない、投票にも。そんな感じに見える。で、結局は何も変わらず。それが「安心・安全」と感じる人もいる。とはいえ、世界は一瞬の停止もないのだから、積極的な意思として「変えない」というのでもない限り、一周遅れ、二周遅れとなっていくのは当然だ。思考停止の結果である。
 もちろん、ただ流れに乗っていければそれでいいとも思わないが、思考停止を一種の脳死のようなものだとすれば、自分の身体が誰かに何かされてもどうすることもできない。それでいいんですか?と訊いても、考えたくないというのだろうけど。

絵を描くひとびと

「デンドロビウム」 水彩

6月1日、埼玉県浦和市にある、県立近代美術館で第72回埼玉県展を見てきた。土曜日だったこともあり、出品者も含め、案外大勢の人が見に来ていた。学校帰りの高校生(たぶん出品者だ)や多くの高齢者が目立った半面、20代~50代くらいの人はとても少ない。それがたぶん今の社会状況を示しているんでしょう。

審査にかかる出品数は毎年1000点を超える。かつては1500点を軽く超え、入選率も3割ちょっとしかなかった。いろいろ工夫をして(良かったかどうかは判断が分かれよう)、入選率は若干緩くなったが、それでも半分以上は選外になる。その中で受賞者になれるのは、たった16人だけ。さらにその上の無鑑査(出品すれば必ず陳列されるという権利)になるには、原則3回受賞しなければならないというルールがある。審査員がほぼ全員入れ替わる現在のシステムの中で、それは厳しすぎるのではないか、という話もちらほら出ているらしい。

会場で何人か知り合いの人と会い、何人かが故人になったことを知った。出品をつづけている人の作品を見ても、すっかりかつての面影のない作品もある(わたしもその一人かも)。でも、それはたくさんの作品群の中で見るから。個人の流れの中でじっくり見れば、きっとそれなりの存在価値を持って制作されているのだと思う。
 高校生たちの出品はあっけらかんとしている(ように見える)が、入選した作品を見るとモヤモヤした傷つきやすさのようなものを感じる。中には驚くような技量を見せる人もいるが、多くは画面を埋めるだけで精一杯。勉強もあるのだから、それで十分立派だ。部活の先生の指導もあるのか、あまり破綻がないのが、かえって残念と言えば残念な感じ。

入選、受賞率だけ見ると確かに厳しい数字だが、そこに若い(あるいは現役バリバリの)精鋭たちが集まって、過熱しているかといえば、それはない。そういう人たちはもっと厳しい別の世界を求め、作っている。そういう意味では、県展は現代と同時代進行しながら、過去を重くまとった別ワールドになりつつあるのかな。不自由な脚を引きずりながら、身の丈ほどもある作品を、子どもや孫の手を借りて出品する人たちを見ていると、それでもここに大事な世界があることを知る。