休息する雲 / Cloud’s taking a rest

休息する雲 テンペラ 1990年代 / The cloud’s taking a rest. tempera

既に何度か書いたが、大学での生涯学習講座終了に伴い、教室からすべて撤去するために、まずは絵の整理をしている。残したい絵がある一方で、残しておきたくない絵も少なからずある。

I’ve  been sorting my paintings out for one month. It’s a preparation to remove it all until the lastday of our painting course of College longlife leaning center. There are some works I want to keep or not.

残したい絵は、やはりオリジナルのイメージ、スタイル、技術がその内容になっているもの、あるいはそこへつながるプロセスになっているもの。当然と言えば当然だが、それが私の芸術観なのだと再確認した。

What are the works that I’d like to keep? It was made of original images, concept, original technic etc, and the process for completed one. In a way, it is natural. I got a new understanding of my own view of arts.

この絵は今から20年以上前に描かれている。人間のように、雲も上に浮かんでいるばかりでは疲れてしまうだろう。たまには地上で休み、元気回復してからまた空へ昇って行けばいいじゃないか、というイメージだ。雲のシリーズは10年ほど続いた。甘い絵だが、今でもそれなりに自分自身には訴えてくるものはある。

This was painted more than 20 years ago. This concept is that a cloud will be tired  such as staying in the sky everytime, so he should take a rest a bit on the ground. After refreshed out he’d better to take off  again. This series was continued about 10 years . This work seems not so cool, but it mekes me move a little even now.     2012/3/1

中学生になった気分です / I’d like to・・

ギターを弾く男(部分) a guiter player(part) 水彩 2012

時々だがこのブログにもコメントが来る。私はそれを無視しているわけではないが、公表は殆どしていない。だから、コメントを下さった方から見れば、ほぼ完全な黙殺と感じても不思議はない。

I got some comments to this blog sometimes. Of cours I ‘ve read all of it, but I haven’t open to the web. So, It is easy to think that YOUR coments has been disregarded.

コメントの多くは私の知り合いだからそれでもまあいいが、時々外国人と思われる方からのコメントについては、ちょっと考える。公表しないまでも、読んでくれているのかな?くらいの反応を返せないかなと。

Mostly of them are Japanese, but there are some people who may be foreigners I guess. Somehow I’d like to reply to them without open to the public. But, how?

英語で書けばいい。そうは思ったのだが、辞書を引きひき、文法書をなまかじりしながら書くのではどうせ通じず、無意味だと思っていた(じつは今も)。けれど、多少意味不明瞭でも何とか気持ちだけは伝えたいと、最近思うようになってきた。自分の英語の恥ずかしさを隠したい気持ちとの葛藤はあるが、それが現実なのだから仕方ないと、も思う。

So I ‘d like to write my blog in English as possible as I do, althogh I’m not good at.

というわけで、(時々かも知れないが)ヘタな英文(のつもり?)も付けてみることにした。英語ご堪能の方、より良い英語になるようご指摘下さい。お願い致します。

I hope you enjoy it with me from now.   2012/2/24

講座終了に向けて

 

ソファーのヌード F8 ミクストメディア

大学での最後のヌード制作が今週で終了。十数年間にわたり、たくさんのモデルの方にお世話になりました。心からお礼を申し上げます。受講者の方々も実に熱心に描いて下さった。皆さんにも心からお礼を申し上げます。一生に一度しかない、かけがえのない時間を共に過ごさせていただきました。

また、多くの方に引き続き私の指導を受けたいとの希望を頂き、ありがたく感じております。大学のような整った環境は外では得難く、環境的な面で今後はいささか苦労するだろうと思いますが、ある面ではもっと率直に自分の考えを推し進めていけるという期待も持っています。

絵画というものが指導されるべきものかどうかの議論は別にして、受講されてきた方々が何を望んでいるのか、それに対して私がどう考えてきたか、これからどうしようというのかを簡単に述べておきたいと思います。実際は私自身の中に迷いも不確かな部分もあり、今ここで断定的に述べたとしても、より良いと思う方向へ転換していくことは幾らでもありうることだと思って読んで下さるようお願いいたします。

20年にわたって絵画講座を担当しましたが、初めは全くの手探り状態。私も講師などの経験は無く、ただ自分自身の、絵画観をそのままぶつけるだけでした。といえばメチャクチャな印象ですが、なまの絵描きの卵が思い惑い、右往左往するさまをまじかに眺める機会など滅多に無いことだという観点でみれば、ある意味貴重な経験を提供したかも知れません。でもまあ、講師としては掲げるビジョンも不明確で、まずは落第だったでしょう。

「絵画の技術・知識」については未消化ながら、出来るだけ伝えるように心がけてきたつもりです。いかに趣味であろうと、絵画の材料はそれぞれ物理的特性を持った実物であり、それを活かさなければ不必要な労力と無駄なお金をつぎこむことになるばかりでなく、作品自体をもより惨めな状態に貶める結果になってしまいます。そのうえ古今の天才達が作り上げてきた、絵画という技術的積み重ねの歴史そのものをも否定してしまいかねません。

大学の講座ですから、単にうまく描ければいいというのでは少し寂しいと思いました。寧ろうまく描けなくてもいいから、技術の習得を通して芸術に魅入られ、時には芸術の犠牲になっていった人々への想いや、造形表現への理解を深めることができたら、教養としても自らを豊かにすることになるのではないか。それが私の「技術指導」の目的の半分でした。具体的に言えば「模写」「古典技法」などがそれに当たります。「絵画の歴史」的に言えば模写は絵画の勉強そのものと言っても、あながち見当違いではないのです。模写ばかりのクラスを作っても良かったなと今でも思っています。一般の「美術史」のようなものは私の能力を超えており、あくまで技術の範囲にとどまってきたつもりです。

受講者の皆さんにとって、「少しは上手く描けるようになりたい」「他人に自慢できるような絵を描けるようになりたい」という欲求は当然のことです。ここは「絵画講座」であって「美術史」講座ではありません。制作上の具体的な技術指導をするのですから、それを求めて当然です。いろんなケースを想定し、最も安易で、最も効率的な方法を私なりにいろいろ考案しました。「1.2.3ステップ法」(油彩)「明暗重視による構成」(水彩)などがそれに当たります。技術指導の目的の半分以上はこのことに費やしています。

でも、満足のいく結果を得られた人はたぶん少数でしょう(実際にはすべての人がレベルアップしています。でも結果が希望のスピードについていけるはずはありません)。程度の差こそあれ、技術の習得には最低限の時間的、経済的コストがかかります。頭で理解できるようには体がついていかない場合もあったでしょう。若い頃より余計に時間が必要ですが、現実は厳しい面があります。

これからも基本的な考え方は変わりません。これまでの方法論が間違っているとも考えていません。それでも「写生的な絵」への直接的な技術指導から「絵画的な」絵へ、今よりさらに軸足を移してもらおうとは思っています。「写生的な絵」を否定することなど誰もできません。が、絵とは写生的なものだけでない、もっと大きく、広く、深い楽しみを持ったものです。そしてその中に自分自身が居ることが何より重要なことだと思っています。絵画としての自立性を保ちながら(単なる独りよがりを越えて)、それぞれの人生の結晶を絵画という形でも残せるようにしたい、そのお手伝いになればと考えています。

「ヘタでもいい」と言えるのは結果であって前提ではないと、私は考えています。それぞれ、生きた証として傑作の一枚を残す(傑作でなくては残らないのです!)。それを目標にしていきたいと思っています。   2012/2/18