ルーティン

        「顔の中の緑」習作   水彩

ルーティンというのがある。一定の動作を定常的に繰り返すことを言う。朝起きて顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨く。毎日その動作を繰り返すことで習慣化し、そうなることで安定した一日のリズムを作れたり、精神的な安定の基礎になったりする。

朝、学校へ行き、いろいろな科目を勉強して帰宅することも学生時代のルーティン。自分で目標を決め、毎日何Kmか走る、毎日(でなくとも継続して)何かを勉強するとか、職人が一定の時間、同じような作業を繰り返すことがルーティンだが、完全に同じことを繰り返すということではなく、その間に微妙に異なることが入りこんで、変化をつけ、その変化への対応力がついていくことでもある。

そういう風にルーティンというものを捉えると、何かを身につけるにはルーティン無くして不可能だ、という気持になる。「継続は力」とはよく聞く言葉だが、「継続させる力」もまた別に必要だと思う。メインエンジンを起動するためのセルモーターのようなもの、ルーティンにはそういう役目もあるような気がする。
 繰り返すことで、一連の作業、行動が半自働的に繋がっていくようになる。その上で、意識的に何かを継続すること。一見偶然にできたようなことも、掘り下げてみれば、そういったある種の継続が底辺に在って、そこに瞬間的な閃きが追加されてできているようにも思える。結果だけ見れば簡単なことのように見えても、簡単なことなど実は一つもないのだという思いに至る。

逆に考えれば、何か身につけたいものがあるならば、ルーティンが欠かせない、習慣化することが不可欠だということになりそうだ。「継続は力」はたぶん正しい。ただし、ただ続ければいいというものでもないだろう。間違った歯の磨き方がかえって歯を傷めるように、間違ったルーティンは時には害にもなり得よう。正しい磨き方を知ること、それが基礎であり、教育で行われるべきものなのだろう。
 とはいえ、それもまた新しい知見などによって日々更新される。ルーティンといえど、またそれに従って日々更新され続けていく。とすれば、まさにそれは人生そのものといって過言ではないかも、だ。一朝一夕にしては、何ごとも成し得ない凡人も、正しいルーティンをすることでそれなりのことはできるのかも知れないが、それができないから凡人というのだろうね。

鞍馬天狗が運転中

昨日の帰宅時、目の前を一台の保冷車が右折した。運転席にはなんと、「鞍馬天狗」。いや、白頭巾に白装束だから「隠密剣士」だったかも知れません。

車が横切ったのだから、車体には社名か、商品名が書かれていただろうが、覚えていない(たぶん餃子ではないか、と想像する)。子どもの時に見ていた嵐寛寿郎の白覆面が、馬ならぬ保冷車を運転して、突如目の前にタイムスリップして現れた衝撃のせいだろう。

刀を背負っていたかを見逃したのは残念だったし、咄嗟にその車を追跡しようと思いつかなかったのは、残念至極。写真は、その時ダッシュボードにあったメモ用紙に、マジックペンでメモしたもの。

 

青いカモメ展終了

今日で終了

始めます、と言ったかと思ったらもう終了。今日から次の展覧会が始まり、しかもそれが全く要領を得ないかったるさでイライラし、正直疲れた。

何とか健康で制作できるのはあと10年がせいぜいとすると、1年に1〜2枚の大作ならもう20枚は描けないことになる。体調が悪ければ10枚位しか描けないかも知れない。その10枚で、自分の人生の何かを表現できるのか。

今のようにダラダラ描いていては上手に死ねないぞ、といつも胸のなかで声がする。