「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。

身体が考える

絵を描いていると、つい夜中まで描いてしまうことがあります。様々な事情があってやむを得ないのですが、あまり良い結果にならないのは殆どの人が経験しています。

可能なかぎり、朝が良い。頭も体も光もフレッシュ。夜はその逆。発想も疲れた、暗い方向へ傾きがちになります。色も綺麗になりません。

上の絵がそのよい例です。実は絵を描くことは、かなりの部分、肉体労働です。あるいはスポーツのような感じです。身体で描いているということを、もっと意識した方が良いかもしれません。

 

極小の風景

私のいる三角形

前回の習作で、三角形の中にチラッと風景の破片のようなひらめきを感じたので、その方へ少し進めてみた。あくまでトレーニングなので、あれこれ考え過ぎず、まずは描いてみる。やり過ぎ、思考不足があるのは当然。

青の微妙な明暗と、色の深さの幅だけで空間を作れるようになりたい。ここでは精神性など全く求めない。新たに発見できた部分も少しはあるが、色の使い方がまだ行き当たりばったり。技術的な課題がクリアされていない。

一つの法則性を確立することがとても大事だと思う。絶対的なものがあるとは思わないが、よりドライなもの、変わらないものを少しずつ掴み、積み上げる。他に選択肢がないのだから、仕方ない。