「この一枚」を描くために

浮かぶ男-2018 習作

第32回晨春会展(正式名称:晨春会’18展)が始まった、というより、明日と明後日で終了する。月日が流れるのは早い。既に追いつかれ、抜かれてしまっている実感はあるが、まだ微かに背中が見えているような気がする(錯覚?)

絵とは何だろう、と何万回考えたか分からないし、おそらくあと数千回は考えるに違いない。そして結論はたぶん平凡なものだろうと想像する。考えても考えなくても大した違いはないかも知れないし、下手に考えない方が良かったということになるかも知れない。

けれど考え、迷う。きっと、それが「今」を生きているということだろう。以前の絵は良かった、何故あのように描かないのか、とたくさんの人たちから、何百回も訊かれる。そして、それに応えることは今も出来ていない。自分でははっきりとは判らないが、たぶんそこは卒業したのだろう。「この一枚を描くために、それら全てを捨てたのです」と言える絵が生まれてくることを信じて。

頑張る栃ノ心

ヴァイオリンと水差しのある静物習作

大相撲夏場所で関脇・栃ノ心の活躍が素晴らしい。特に今日は26回目の対戦で、初めて横綱白鵬に勝利。しかも初勝利とは思えないような、堂々たる力相撲の末の完勝。腕力だけの荒い相撲から、力強く、かつ緻密な相撲に大転換した。

勝ち方を覚えたんですね、というのは解説ではない。どうやって勝ち方を覚えたのか、を解説して欲しいのだが、解説者自身にそういう経験がないから言えないのだろう。地道な努力、それも誰だってやっている。けれど栃ノ心のようにはならないのだ。そこが知りたいではないか。

(たぶん)彼は「自分の体」、「自分の力」が判ったのではないか。相撲のセオリーや、これまでに染み込んだ常識をもとに成長しつつも、それを文字通り「脱皮」し、捨てさることができたのではないか、と思う。本当の意味で自分を知ることで、無心になれた。それが今の栃ノ心ではないか。でも、人は弱い。一歩進めば再び自分を見失う。無心のままに相撲を取り続けて欲しいものだ。

動詞としての「造形」

バイオリンと水差しの静物習作

造形とはこういうことだろうか。

綺麗な和菓子。上品な薄い衣を透かして見える、選び抜かれた名産地の粒あん。美しい菓子皿に添えられた、小さめの漆塗りの匙。晴明の窓から新緑の葉影が落ちている。

それが「造形」だとしたら、眠い。でも、考えてみると確かにそういう面も否定はできない。でも、なぜ眠い?

要するに「造形」が動詞なのか、名詞なのかの違いだろうか。求めているのは「動詞としての」造形。そうでなければ、絵画は美しい和菓子と同じ意味。上の絵は、まだ駄菓子だな。