明けましておめでとうございます

「種(たね)のかたち」 SM、テンペラ、アクリル、蜜蠟
「Apple村の風景」―こちらも反放置だった

明けましておめでとうございます。今年も元気で行きましょう。

6年ほど前、100号を含め何点か「種」シリーズ?のようなものを連作したことがある。その中の一点が、どうしても仕上げることが出来ず、はんぶん放置状態になっていた。暮れに(と言っても昨日のこと)、来年は(と言っても今日のこと)テンペラを描くぞ、と言った手前、昨日のうちにメディウムだけは作っておいた。

8カ月もテンペラ制作をしなかったので、もう描き方を忘れている。玉子を割り、油とかき混ぜてメディウムを作っているうちにだんだん思い出してきた。顔料を入れる箱の上に、プリントだのいろいろ乗っかっているのを片付けながら、何を描こうかと、地塗済のキャンバスを探しているうちに、この “半放置状態” のものが転がってきた。まさしく種を播いておいたようなもの。

新作ではないが、まずここから手を付けました。下の絵も半放置状態でしたが、ついでに仕上げてしまいました。

「欠けたもの」のある美しさ

よく聞くことだが、(現場での)スケッチが一番良く、習作を重ねるごとに悪くなって、最後の完成作が一番面白くない、という話。半分は事実だろう。時間はスケッチが一番短く、完成作が一番長くかかっているのが普通。時間をかければいいものが出来るとは限らない。

なぜ、限られた時間、空間の中で描かれたスケッチが、よく構想も練られ、必要十分な画材とたっぷりの時間をかけて描かれた作品より魅力があったりするのだろうか。

わたしの感覚では、それは現場での直感的な反応も含め、「未完成の力」ではないか、と思う。「未完成の音楽」というのが魅力的かどうかは分からないが、絵や彫刻ならあり得る。半分しか描かれていない、あるいは部分的にしか塗られていない絵が、えもいわれぬ光を放っているのを、きっと多くの人も経験しているに違いない。彫刻もそう。ミケランジェロの荒削りの「奴隷像」、円空仏、未完成とはちょっと違うが、「両腕の欠けた」ミロのビーナス。「欠けたものがある」こと自体がその源泉である。あるいはその「欠け方」が美しいのだろうか。

反対に「行き過ぎた魅力」もある。たとえば「バロック」。たとえば(盛りを過ぎた)「剥落の美」。「源氏物語」、その現存の絵巻の絵など。バロックでは「節度」が欠け、(現存)源氏物語絵巻では「力・Power」が欠けている。たしか日本民芸運動の主唱者であった柳宗悦(やなぎむねよし)が、「茶碗の欠けた一片が、整った完成作より美しいことがある」と言っていたような気がする。
 

初雪-2

「初雪(那須岳遠望)」  水彩 F6

一昨日と同じモチーフ。今回はあえて定番の「道」を入れてみました。やっぱり構図としては平凡になります。杉林を広葉樹風に変え、そのうえ(特に近景は)色もできるだけ省略するようにしたので、一見、桜の時期に雪が降ったかのように見えるかもしれませんね(桜を描くときには使えそう!)。白い部分は紙の塗り残しです。

いまのところ、YouTubeにアップするための練習を兼ねて水彩制作を続けているので、あまり自分らしくない絵が続いて、ややフラストレーション気味です。これでも写真とは結構変えているのですが、さすがに「やりたい放題」からはかなり遠いですね。とはいえ、描くこと自体は嫌な筈もなく、枚数を重ねてくると、だんだん水彩に慣れてくるというか、技術的にも小さな発見が毎回あるのが楽しみでもあります。