絵画の原点

アメリカ芙蓉

絵画の原点。大げさなタイトルのようにも見えるが、私には次第にハッキリしてきた、と思う。

絵画の「原点」はある意味、時代とともに動いてきた。だから、ここでいう原点とは、「現代において」である。とはいえ、人間の歴史が途切れることなく続いてきたように、歴史的な「原点」も現代の原点に繋がっていることは当然だ。

「自由に描くこと」。それが原点であり、それが最終的な「理想」である。それを忘れないこと。多くの作家がいて、それぞれ自由に好きなものを好きなように描いている。全ての画家が理想を達成、謳歌しているように見える。が、それは本人を含めて、殆どの場合、「錯覚」である。「自由に描く」ことと、好きなように描くのとは次元が違うことに気づいていないからだ。(この項続きます)

「この一枚」を描くために

浮かぶ男-2018 習作

第32回晨春会展(正式名称:晨春会’18展)が始まった、というより、明日と明後日で終了する。月日が流れるのは早い。既に追いつかれ、抜かれてしまっている実感はあるが、まだ微かに背中が見えているような気がする(錯覚?)

絵とは何だろう、と何万回考えたか分からないし、おそらくあと数千回は考えるに違いない。そして結論はたぶん平凡なものだろうと想像する。考えても考えなくても大した違いはないかも知れないし、下手に考えない方が良かったということになるかも知れない。

けれど考え、迷う。きっと、それが「今」を生きているということだろう。以前の絵は良かった、何故あのように描かないのか、とたくさんの人たちから、何百回も訊かれる。そして、それに応えることは今も出来ていない。自分でははっきりとは判らないが、たぶんそこは卒業したのだろう。「この一枚を描くために、それら全てを捨てたのです」と言える絵が生まれてくることを信じて。

頑張る栃ノ心

ヴァイオリンと水差しのある静物習作

大相撲夏場所で関脇・栃ノ心の活躍が素晴らしい。特に今日は26回目の対戦で、初めて横綱白鵬に勝利。しかも初勝利とは思えないような、堂々たる力相撲の末の完勝。腕力だけの荒い相撲から、力強く、かつ緻密な相撲に大転換した。

勝ち方を覚えたんですね、というのは解説ではない。どうやって勝ち方を覚えたのか、を解説して欲しいのだが、解説者自身にそういう経験がないから言えないのだろう。地道な努力、それも誰だってやっている。けれど栃ノ心のようにはならないのだ。そこが知りたいではないか。

(たぶん)彼は「自分の体」、「自分の力」が判ったのではないか。相撲のセオリーや、これまでに染み込んだ常識をもとに成長しつつも、それを文字通り「脱皮」し、捨てさることができたのではないか、と思う。本当の意味で自分を知ることで、無心になれた。それが今の栃ノ心ではないか。でも、人は弱い。一歩進めば再び自分を見失う。無心のままに相撲を取り続けて欲しいものだ。