デザインしない

習作                                    24,Dec,’18

「コム・デ・ギャルソン」の創立者でデザイナーの川久保玲さんの、ごく最近の言葉「デザインしないことがデザインだと思った」。

常に新しいもの、エキサイティングなファッション・デザインを追求してきた彼女の一つの到達点「そういう追求の仕方では、(もう)新しいものは見つけられなかった。心のなかに自然に湧き出てくるもの、それを素直に出すことがデザインだと思った」。僭越ながら、私もこの言葉に深く共感する。

「素肌に自然にフィットするかたちを作る。そのかたちになるように鋏を入れるだけ」。「でも、その鋏を入れる場所は究極の位置」。川久保さんの言葉のままではないが、そういう意味。ファッション・デザインの分野だけでなく、すべての「創作」に共通する深い意味が込められている。「賽は投げられた」。あとは受ける側の感性の深さ、柔らかさにかかっている。受け取る側に感性がなければ、彼女は空中ブランコからコンクリートの地面に身投げしたと同然である。支えてくれる柔らかい感性はあるのか。しかし彼女はそれを意に介さない。それしかないと、すでに手を離してしまった。それが、創作の世界だと言うように。

風景画の試み

宮代風景

水彩画への、私にとっての新しいアプローチ。簡単なことなのに、なかなか第一歩を踏み出せなかった。鉛筆を一切使わず、絵の具が乾かないうちにどんどん描いていく。それだけが条件。面白い結果になりそうな気がする。

しかも、私には実際、こんな風に見えているように思える。明るさと色、ぼんやりしたかたち。これを油彩でもテンペラでもやり、人物画でも静物画でもやる。でも、水彩の方が何となく肌に合うというか、可能性が大きいような気がする。

自分に帰る

「モデル」 水彩 F10

とうとう12月。しばらく制作途中の絵から離れていた。1週間も遠ざかると、まるで絵の神経が切れてしまったかのように感じる。描きかけの絵を一日中呆然と眺めるばかりで、線一本さえ加筆することができない。

やがて感覚が少しずつ戻りはじめ、翌日くらいからやっと「自分」が帰ってくる。