ビジョン

「Apple」習作

絵画とは「ビジョン」だけで完結するものかも知れない。ビジョンとは、「見えること、もの」をいう。それを「画面に定着」することは必ずしも必要でない。そういう意味ならすでに映画やビデオがある、というより、もっとラジカルに、仮に言葉で聞き手の脳に像を描かせることさえできれば、それを絵画と呼んでいいのではないか、という意味で。

あるいはビジョンのリアリティと、言っていいかとも。むしろ絵画にとってはこの方がずっと重要で、「見る人にとって」リアリティの無いものは絵画ではない、と言ったらどうだろうか。当然リアリティとは何か、ということになるが、それは「見る人」次第ということになる。作者はどこへ行ってしまうのか?それでは不特定多数に対して発表する絵など描けないではないか。いや、作者は作者で、見る人のことなど考えずに、自分のリアリティだけ追求すればいいのだ。作者と見る人の関係が断絶していることにおいて、初めて本当の関係が成り立つのかも知れない…などとぼつぼつ。

サイズアップせよ

「飛ぶ男」  終了…(7/25の画像参照)

「飛ぶ男」。もうひとつ、何か足りないと思いつつ、もう一枚、サイズアップして描かなくてはこれ以上見えてこない、と考えて「終了」。ある一定のサイズにならないと、見えてこないものがある。

マティスの、50号を描くための150号サイズの習作。ロートレックの、15号程度のリトグラフを描くための100号台の油絵習作など、小サイズのエスキースから大作へ、という常識に慣れ過ぎていることを痛感。5分の素晴らしいデッサンのために、何年もの積み重ねがあることを思い起こせば、習作のサイズアップなど何でもない。

海からほぼ垂直に立ち上がっている断崖絶壁の巣から、羽がまだ未発達状態のままのヒヨコが、自ら勢いよく飛びだす。当然のように、数十(数百?)mもひたすら落下するばかり。やがて張り出した下の岩に激突、跳ね上がって、そこからさらに転げ落ちていく。何度も激突、落下を繰り返しながら、海面に近い大きな岩棚で止まる。そこには2羽の大きな鳥が待ち構えている(BBC.Wild lifeの映像より)。

「全身砕けて死んでしまった。待ち構えている大型の鳥に食われるのか」と思った瞬間に、ピーピーと鳴きつつ立ち上がるヒナ。待ち構えていたのは親鳥たち。なんて過酷な巣立ち。そんな映像を見ると、ダメな絵を描きなおすなんて、「当然」以外の言葉はないですね。

絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)