「深い」話

「飛ぶ男」2019 F10

「あの人の話は深い」などと言う、その「深い」とはどういうことなのだろうか。人の心理の奥を知っている、という意味もありそうだし、社会的なしがらみや身体と心、心と技術などとの微妙な機微をよく知っているという意味なども含まれるかもしれない。

要するに「1+1=2 」のように明快ではないが、どこかで誰もが納得できる真理につながっている感覚がある。これが「深い」話の第一条件だろう。けれど「混迷」もまた、よく似た感覚だ。あるいは「混迷」と思われた方が真理である場合だってあるかもしれない。それを私たちはどうやって嗅ぎ分けていけばいいのだろうか。

絵画教室で「ヴァリエーション」の話をした。一つのモチーフについて、幾つもの表現(法)を試みるということだ。「思考回路の経験値を増やす」と少し学校風な説明をしてしまった。経験値を増やす、たくさんの経験をすることは時間(時には体力も)もお金もかかり、書物などで勉強するより非効率で、頭の悪い人のやり方のように思う人がいるが、そうではないと思う。

偉人の一生を一冊の本で読むこと、60年、70年とかけて積み重ねた(人生)経験とせいぜい数日の読書とがイコールな筈はない。しかし、もちろん読書が無意味な筈はなく、自分の経験値が大きいほど読書から得られるものも大きいと感じるのは普通のことだ。絵画でも、制作経験が有ると無いでは、他人の作品を前にした時の問題意識が違う。「自分はこうしてきた」という経験と、無意識のうちに対照させて見るからに違いない。その対照上のずれが「なぜ?」につながり、その疑問への解決がまた自分の経験になる。そうした積み重ねが、他人である作者の内側からものを見る感覚につながり、他人である作者の経験を取り込むことにつながっていくと考えられる。

少し脱線した。結論から言えば、絵画を「深く」するには「ヴァリエーション」が非常に効果的だということだ。思考回路の経験値を増やすということは視点の多様化(単なる知織化の可能性もあるが)でもあり、その中から一つを選んで実際にやってみるという経験、決断がまた次の視点への契機になっていく。その巡り自体を「深化」と呼ぶのではないか、と私は考えているのである。

渋谷

ミュシャ展会場入り口

久しぶり(本当に久しぶり)に渋谷に行った。Bunnkamuraへ話題の「ミュシャ展」を観に。その前に川越のギャラリー・ユニコンで「佐々亮暎展」を観たので、ついでにと東武東上線、地下鉄有楽町線、メトロ副都心線と乗り継いで渋谷へ。普段は利用しない路線なのでナビがないと迷ってしまいそうな、ほとんど聞いたこともない駅ばかり。

地下鉄から渋谷の「地上」へはどこの国のどの駅かと思うほどに(私には)目新しかった。日本人かなと思えば中国語か韓国語(日韓関係の悪化からか、韓国語は激減した感じがする)、中東系、アフリカ系、ヨーロッパ系の人たちが(住んでる風に)普通にいる。大河のようなものすごい人の流れと、人口光の乱反射。ハチ公前に出る。地上に出ればまあ、それほど異国感はなかったが。

ミュシャ展は多分どこかのTVで宣伝しているのだろう、とても混んでいた。若い人が多かったように思う。混み具合も内容も予想通り。何度も観たことのある絵柄だし、デッサンのうまさもわかっているし、亜流に興味はないし、漫画へのこじつけも予想通り。初めて観る人にはこの混み具合は少しかわいそう。油彩によるエスキース(アイデア・スケッチ)4点だけ近づいて観た。

急いで渋谷駅に戻り、「地上3階の地下鉄」銀座線へと登る。ここへの狭い階段は少なくとももう50年近く古いまま。地下通路との時代ギャップがすごい。この共存感が半端じゃないのが大都会なのかな。表参道で千代田線に、乃木坂。国立新美術館は黄昏時で空いていた。新制作展、行動展両会場内をぐるぐる巡る。良い作品もあるがつまらないものもどっさり。そんなものだろうが、観ることがすべての始まりだ。

ひさしぶりに歩き回ったので、駅での下り階段では左膝の腱が注意信号。無理すれば本当の膝を痛める。限界だ。帰宅したら、訃報が待っていた。

葛飾北斎と伊藤若冲

「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催中だ。まだ見ていないが、ぜひ行ってみたい展覧会だ。学生の時(今から44年以上前)。本で読み、以来ずっと私の脳の片隅から消え去ることがなかった、一つの絵画論としての辻惟雄「奇想の系譜」。私の秘蔵書の一つだが、本展はこの本の「視覚化」だ。イメージとしては本の方が強いが、見ない理由はない。

昨年(一昨年?)、若冲展があったが、大評判になり、長蛇の列のおかげで見ることができなかった。見に行った人からの賞賛を聞いたり、図録を見せてもらいながら、「若冲なんてそれほどのもんじゃない」と改めて感じた。人気はマスコミが作り上げた虚像だ。

そう言うからといっても私は若冲の批判者ではなく、ファンの1人である。多くの人がその名を知らない頃から、私には「これが若冲だ」と言う、好きな絵があった。「群鶏図」。若冲にはそれ以上の絵はない。ところが先述の「若冲ブーム」があって、あたかも若冲が日本絵画を代表するかのような錯覚が(一時ファンの間で)起きている。私も若冲は好きであるが、北斎と並べようなどとは思わない。若冲狂いには悪いが、「格が違う」。だが、違っていいのである。それが若冲を貶めることには必ずしもならないことが、若冲たる所以だと理解できない人は「若冲ファン」を標榜するのをやめた方がいい。

曾我蕭白も楽しみだ。彼などある意味、「国際作家」北斎を超えている。彼らの天才性を見るということは、私たち真面目人間には真似のできない凄さを体感すると同時に、それが「私たちと同じ」人間のしでかしたことを見る嬉しさを感じる時間ではないかと、期待しているところ。