下北風景 / Landscape

下北風景 パステル、クレパス

久しぶりに風景画を描いてみようかと、スケッチブックに子どもが使った残りのクレパスなどで、イメージを描いてみた。

母を見舞った病院から1.5kmほどの、道沿いにある民家。車の出入りする轍の跡がなければ人が住んでいるようには見えない。晴天の雪景色だったが、そのままではまるで観光写真に見えるので、月夜を思わせる、青い風景にしてみようかと、2〜3枚スケッチした。

絵の半分は見る人が描くものだ、という考えが近年強くなってきた。文化とか環境とか生命という大きな次元の中で、「個」ということの意味が私にとっては随分変わってきた。始めに個ありきではなく、どう生まれ、どうやって輝くのか、少し考えるようになってきた。

 

Apples in the Apple

日本人の感情はwet 、湿っている。極めてデリケートな一方、酒のようにその中で酔わせてしまう不思議な力がある。日本人の芸術といえばさらに湿って、酒の中でも濁り酒の酔いのようだ。

風土と言えば風土でもあろう。一方、乾いた砂に象徴される対極的な風土もある。そして、そこから生まれでる芸術のそれぞれの良さを、互いに認めることもできる。でも、よく考えてみると、なぜそのような理解というか、認め合うということが可能なのだろうか。何がそれを可能にするのだろうか。

たぶん造形という機能が、通路のようにその往来を可能にしているものの一つだ。その通路に面してひとつのドアがある。気づかずに通り過ぎてしまいそうな小さなドアだが、そこを開ければ見える世界は意外に広大だ。誰にも出入り自由で鍵はかかっていないのに、気づいてもせいぜい首を突っ込んで覗くだけで、何故かなかなか中へ入ろうとはしない、不思議なドア。

 

「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。