「自信」ではなく、「自身」

青いカモメの会 絵画展

第5回カモメの会 展が今日から始まった。今日は陳列と、午後1時からの開場。雨の予報だったが、開場中は何とか降られずに済んだ。ラッキー。

出品者は目前のゴールテープをとりあえず切ったので、ホットするのも束の間、気がつくと自分の作品が急に心もとなくなってうろたえ始める。あげく、自信無くしてしまいました、どうしたらいいんでしょう、などと言い出す。

残念ながら、こういう場合、放っておくのが一番。ある意味ではつまらぬ自信などない方が良いし、人に褒めてもらって付く自信など、次の批評ですぐにぐらつくに決まっている。

個性的であることが最も大事。けれど、それは必ずしも風変わりな作風であることを意味しない。世の常識に惑わされず、「等身大の自身」であることが重要で、それが結果として世の常識とぴったり同じであるはずはない、というだけのこと。

新しい誘惑

今年も似たように花は咲くが、誰も前の花など覚えてはいない

浮世絵版画の背景?に書かれた文字が読めないというイライラは以前からあったので、この際一挙両得ということで、変体仮名の勉強を始めた。(もともと外国語ではないので)覚悟を決めてかかったわりには、読みだけなら、それこそ基本のイロハを覚えれば何となく読める。江戸の庶民は基本的にひらがなしか読めないので、それで浮世絵の中の文字ならだいたい読めることになり、当座の目的は達成する。

けれど、読めるけれどなんの事だか分からない、というのがたくさんある。例えば江戸時代に使われた道具ひとつとっても、現在既に使われていないものについては、それが道具であることさえ分からない。それは江戸時代の文化や社会などについての知識がないからだ。

それを知りたいとなると厄介だ。どんどん深みにはまってしまう。これは危ない。どこかで切り上げないと大変なことになる。しかし、危険というものはたいていいつも興味と背中合せになっているものだ。はじめの一口がいつのまにか大酒飲みを作り出してしまうようなものか。

昆虫・油彩・大理石

    「蝶など」           油彩・大理石

昨日(3/25)久しぶりに上野へ。桜は満開。花の下では中国からの旅行者たちが、かわるがわる枝を自分の顔のそばに引っ張り込んで写真を撮っていた。暑いくらいの陽気で、大勢の人で賑わっていた。

ブリューゲル展(東京都美術館)に入った。久しぶりのクラシック展だったが、まあこんなもんか、という感じ。しかし、出口近くの2点には少し驚いた。写真はそのうちの1点。2点とも6号ほどの小品だが、油彩で昆虫を驚くほど細い筆で描いてある。作者はヤン・ファン・ケッセル、1659年作。磨かれた大理石の上に描かれている。

そうだ、油彩は石の上にも描けるんだったなあ、と改めて思い出した。しかし、このような場合、油彩につきものの「油のヤケ」が全然見られない。ついさっき描かれたかようにフレッシュ。しかもひたすら「昆虫」図鑑のような描き方が、いっそう現代的であるように感じられた。

道すがら西洋美術館に立ち寄り、「プラド美術館展」も見る。ヴェラスケスのデッサン力・構想力が他を圧倒している、の企画どおり。けれど、私的にはそれらの展覧会を、ずっと立って見ていられたことの方が嬉しかった。