ホワイト & ブラック

「黒い瓶とリンゴ」   2020 水彩

白いもの、黒いものを描くのは、ちょっとチャレンジ気分になる。「白いもの」は周りを暗くすることで表現するが、「白の白さ」は、本体と周囲の暗さの序列をきちんと測り、その序列のままに表現しなければならない。しかも、無段階ではなく、きちっと5~6段階にまとめる、四捨五入のような操作も必要だ。

黒いものも同様で、平坦に黒く塗るだけではただの「穴」になってしまう。黒の中の明暗変化を微妙に描き分けることで、黒いモノの材質感を表現する。紙の上では「黒」と「暗さ」の違いは、材質感が有るか無いかが判定基準。明暗を見極めるカメラ的な眼と、それを描き分けるテクニック以外、「黒いモノ」をモノとして支えてくれるものはない。それなのに、よく描けてもせいぜいグラデーションの粗い、写真のような絵になるだけで、きらめくような華やかさや色彩の豊かな味わいなどと、ほとんど無縁な白と黒。けれど描く側にとって、このストイックなまでのマニアックさを、時々思い出したように味わいたくなるから不思議。

テンペラやアキーラ、油彩での「Apple」と水彩での青リンゴを、昨年11月からこの3月までの間に、4号から120号まで20 枚ほど描いた。制作量が足りないと思う。テンペラや油彩の「Apple」は頭で描く。水彩の「リンゴ」は眼で描く。「頭」に時間がかかり過ぎている。頭と眼との関係はこれでいいのかチグハグなのかは、今のところ自分ではよく判らない。

上のスケッチでは青いリンゴはダミー(仮)の主役、アイ・キャッチャーの役目。真の主役は黒い洋酒瓶(画面中央、コントラスト最大)。主役なのに、てっぺんをカットしたのが私の趣味。一つの演劇(パントマイム)を作っているつもりです。

Yellow Apple in yellow

「Apple」 2020 Tempera on canvas

Appleの連作を続けています。なぜ続けているのか、時々分からなくなりそうになりますが、ともかく目の前にある作品より、もっと面白いものが描けそうな気がして簡単にはやめられないのです。集中して、一気に「もうこれ以上はできない」というところまで続けなければならない、と自分の中の経験が囁いています。

「迷う」ということがあります。一番きついのは「こんなことをやっていていいのか」と不安になる時です。今やっていることの意味がわからない、という時です。不安なのですから、当然自信も失います。けれど、それは大事なことで、確かに苦しいけれど、あれこれ悩み、一歩踏み出してはまたその場で考える。その方が、根拠のない自信満々、何も悩まず手を動かすだけ、というよりはずっと正当で、マシなのではないでしょうか。

この連作を続けながらも「こんなことをやっていていいのか」と時々不安が湧き立ちます。そして、人が何と言おうと、今自分にできることはこれだけ、と思い直してまた続けています。「今できること」とは能力の問題ではありません。描写技術なら、これよりもっと繊細、写実的なことだってできます。そういうことではなく、現時点でギリギリ自分が納得できる方向で最大限可能なこと、という意味です。方向が間違っていたら?それは考えたら切りがありませんし、ここに至るまでにたくさんの論理と直感を積み重ねて探り出した方向のはずですから、間違っていたとしても仕方ありません。それが納得という言葉の、自分にとっての意味です。

Appleはもう少し続きそうです。ワンパターンのようではあるけれど、ワンパターンだからこそいろいろやれることもあるのです。いま大事なことは「他人の意見を聞かない」こと。集中して、思い通りにやることだよ、と直感が囁いています。

音楽の「力」、芸術、スポーツの「力」

「西洋梨」 29Jan’20  水彩 F6

坂本龍一という音楽家がいる。もとYMOのメンバーなどと言わなくても、知っている人の方がたぶん多いだろう。先日、朝日新聞(電子版)での彼へのインタビュー記事を読んで、全く共感した。

「音楽の力」という言葉、言い方が嫌いだという。音楽に人を勇気づけたり、癒したりする力があるのは事実として、そういう「言い方」に違和感を持つというのだ。はっきりとは言わないが、その言い方がある種の政治的、社会的な方向への指向性を持たされることへの危険な匂いを嗅いでいる、ということだと感じた。その嗅覚に深い共感を持つ。

ワグナーの英雄的な響きがナチスに最大限利用されたように、日本でも歌謡曲的な音楽が半ば「軍歌」として広く歌われ、戦争を美化する方向に利用されたことは多くの人が指摘する。また、彼は高校生たちが(スポーツなどを通して)「感動させたい」という言い方をすることも「嫌だ」という。受け取る側が感動するのはいいが、演じる側が「感動させる」というのは傲慢ではないか、ともいうのである。これにも深く共感する。ついでに言えば、特にスポーツの若い選手たちがやたらに「感謝」という言葉を連発することにも、私は強い違和感を感じる。それは引退の時にこそふさわしい言葉ではないか。

選手たちが競技のための施設や助成金、多くの有形無形のサポートに対する感謝の気持ちを持つのは、もちろん悪いはずはない。けれど、素直な気持ちだけではない、「言わなければ」ならないという「圧力」を私はそこに感じる。その言葉がなければ、後でいろんな形でのバッシングがあることを、選手も関係者もひしひしと感じているからだ。無意識に「私たちの税金を遣っているのだから、感謝して当然」という感情が、そのまま上から目線の圧力になっていることに、私たちはもっと注意深くなければならない。そして、そのことをよく識っていて、密かに利用する暗い力があることにも、同時に意識的でなければならない、と思う。

音楽の力、芸術の力、スポーツの力。それが、人々を多様性でなく(実はこの言葉も最近特に聞きたくない語になってきた)、平面化する方向に働く(ここでは「共感」「感動」という語も怪しい匂いを漂わすことがある)ならば、それは本物の「音楽、芸術、スポーツ」の力を削ぎ落とし、歪なものに変質させる、一種の癌にもなり得るのだ。龍一氏曰く「やっていること自体が楽しい。それが大事」。そう。その存在を見るだけで、税金などとっくに元は取れているのである。