Appleで考えること

「 Apple 」 2020 P50 tempera, Arcid on canvas

「青いカモメ展」出品作の一つ。写真は出品時より少し前に撮ったものらしい。中央部分はじめ、細部もう少し描き込まれる前の状態のようだ。写真を撮るのも忘れていたらしい。

「どうしてこんな絵を描くようになったんですか」と、よく聞かれる。尋ねる側にも「以前の絵の方が良かったのに」という思いがある人と、「何が面白くてこんな絵を描くのか理解できない」という思いの人とがあるように見える。どちらも「つまらない」と言いたいのだけれど、気を遣った言い方をしてくれているに違いない。ありがとう。

いずれにしても、一言で答えることはできないが、前者に対しては「済みません。力不足で」というしかないし、後者に対しては「むしろ理解などせず、そのまま見てくれればいい」という答えを、とりあえず用意してある。確かに、自分でも面白く、楽しく描いているわけではないから、そう見えないのも仕方ない。これは、私にとって「課題作品」だから、ある程度辛さを我慢しつつ描いているのである。

どんな課題かといえば、「造形要素だけで成り立つ作品を作る」ことと「思想・感情を込める」こととの両立ということ。「なあんだ、それじゃ全ての絵がやっていることじゃないか」と言われれば、まさにその通り。ただ、私自身には、両方同時進行はうまくできないようだ。自分の弱い方、勉強次第で改良できる「造形」の方に力を入れている結果が、現在のかたちになっていると言えば、納得してもらいやすいのかもしれない。

Apple-Blue

「 Apple – Blue 」 2020

昨日から「青いカモメの会・絵画展」が始まった(20日16:00まで)。その搬入のため作品を車に積むとき、初めて気がついた。「あれっ、仕上がってない」。

思い出してみると(出品作は「頭の中ではすでに仕上がっていただけ」で)、目の前の別の作品が、今にも奈落に落ちていきそうで、それをなんとか救い出そうと、数日「 ICU」 状態で一生懸命になっていたのだった。

「奈落の底に落ちそう」だった絵がこれ。いろいろ手を尽くしたが、すでに落ちてしまっているかもしれない。なんだか、地獄のような風景にも見えるし。「Blue」とつけ足したのは、気分がとてもブルーだったから。手当ての甲斐なく、絶命した患者を見下ろしているDr.になった気分だ。

がっかりしながら眺めていると、なんだか情けない「自画像」にも見えてきた。1950年代の旧式ロボットの図体に、イカれたゼンマイ仕掛けの「脳」を載せた自画像だ。「何を描こうと、すべて自画像」と常々心しているが、その意味では、これはまさしく私の絵以外ではありえない、と思えてくる。あまり楽しくない、生き方もその表現もチグハグ。でも、とりあえずもう一枚描いてみたほうがいいんじゃない?と絵自体がそう言っているように見える。「いかに裸になれるかが本物かどうかの分かれ目だ」と、誰かの言葉だったか、私自身の想いだったかもう思い出せないが、こんな絵を描く以上は、私も(もうしばらくは)ゲージツ家なのかも…だ。

青いカモメ…展

「青いカモメ」  2020

正確には「青いカモメの会・絵画展」。明後日9/15(火)から始まる。カモメをテーマにした会でも、カモメの絵があるわけでもない。「青いカモメの会」という絵画教室の展覧会です。教室の名は、当ブログの名に因む。

今年で第7回。不適当な言い方かもしれないが、年齢だけ見れば、高齢者の絵画展(学校関係やコンクールを除けば、日本中の展覧会は、その意味では似たり寄ったり)になってしまった。「なってしまった」のは、時間が止められない以上、ある意味で仕方ない。けれど、年々少しずつだが、レベルが上がっているのは嬉しい。

手前味噌だが、それはメンバーひとりひとりが絵に対して真摯に向かい合っている証拠だし、それぞれの課題にチャレンジしてきた結果でもある、と思う。もちろん、プロではないし、体力的な問題もあるから、作品を「世に問う」などと、鼻息荒く息巻くようなものではない。けれど、単なるお絵かき、ボケ防止のお遊びのようなものだと馬鹿にしてはいけない。最近の作品には、本質的な追求を含んだものも散見するようになってきたからだ。

絵の世界は深い。単にプロ的なテクニックの上手さだけで描ける世界はその一部に過ぎないし、楽しければそれでいいという、享楽的?な世界もやはりその一部分。いずれにせよ、自分たちがやっていることは、大きく、深い世界のほんの一部であり、多くは未知のものではあるけれど、案外すぐ隣に、底の見えない、深い断崖のようにそのいり口が大きく開いているのを、風のように感じられるようになった。絵がわかる、というのは評論家や作家の説明が言葉で理解できるという意味ではなく、実はそういう風に、作家の息を肌で感じられるという意味の方が大きいのだ。そして、彼らの絵が、少しずつそういうことをささやけるようになってきたことが、私にとってはいっそう嬉しい。