生死を分ける稜線

登山家ウェリ・シュテックが40歳でエベレストで滑落死するまでの半生を、スイスの放送局が編集したものの一部をネット配信で見た。「生死を分ける稜線」はそのタイトル。

「他の人が自分を見たら、あいつは気違いだというだろう」。彼は自分でそう言い、ある山では、落石に頭を直撃されて200mも落下し、二度目は友人を高山病で失う。「この山は自分のものじゃない」と二度も撤退しながら、結局は三度目にチャレンジする。「自分はこれまで挑戦してこなかったんだ。」たくさんの危険な岩壁を超人的なスピードで登る、登頂までの最短記録をつくりながらそう言うとき、彼の「挑戦してこなかった」とはどんな意味だったのだろうか。

一歩誤れば谷底へ真っ逆さまという危険な雪の稜線を、彼は実際に走る。「滑落死が常にとなりにある。」映像はそれが彼にとっては日々の練習でもあることを示す。

生きるということとピッタリ背中合わせの死。そんなぎりぎりの、極限の美学があるんだなあと思う。

藤沢伸介展

「森の眷属(けんぞく)たち」木、針金 藤沢伸介展)
画廊ウインドウに貼られた「切り紙」(奥の人物は作者ではありません)

毎年個展の案内を頂いても不義理がつづいたが、下北沢での藤沢さんの個展に、数年ぶりに行くことができた。私にとって藤沢さんは「雲の上の人」である。私だって美術の世界に足を踏み入れてもうすぐ50年になる。少しくらい上手だとか、ユニークだとか世間にちやほやされるくらいのレベルには全然驚かないし、羨ましいとも思わない。でも、彼の自由自在な感覚は、一見手が届きそうなのに届かない、つかめそうなのにつかめない、まさに雲のように高い存在なのである。

「森の眷属たち」。公園か、ひょっとしたら誰の家の庭にでも落ちていそうな小枝のきれっぱしが、ひとつの世界を語っている。のではなく、藤澤さんが、消え入りそうな存在の彼らに新しいいのちを吹き込んで、語るべきステージをつくったように私には見える。そのような彼に、小枝たちはいとも気安く、語りかける。―そう書けば「ああ、そういう世界ね」、と知ったかぶりをする輩が必ずいる。けれど彼の小刀は、そういう奴らの鼻を明かすくらいは余裕の熟練度だ。清少納言だったか、「切れすぎる小刀は」良くないと言っているが、彼の小刀は、ボキッと自然に折れたところまでは削らない。心憎い、抑制を知っているセンスなのだ。

もうひとつ感心したのは、ウインドウに「(無造作に)貼り付けられた(半透明の)切り紙」(写真下)。私は高村光太郎の妻、智恵子の切り紙を畏敬しているが、そのような冴えを見せているにも拘わらず(技術的にはそれ以上)、それらはおそらくほとんどの来廊者には「展示外」扱いに見えるだろう。「分る人には分かるだろ」という、作者の無言の、実は決して「無造作」ではない、ひとつの挑戦なのだろう。「風神雷神」「鳥獣戯画」「猿蟹合戦」などを動画で見るような切り紙(あえて「切り絵」とは呼ばないでおく)は、あんがい彼の真骨頂なのかもしれない。ぜひ注意深く見てほしい。

こっそり奥様に聞いたところによると(初めてお目にかかったが)、最初は水彩画だけでやりたかったとか。そういう意味では、今回は余分なところにばかり眼を惹かれてしまったが、まだ青年のような彼のことだから、いずれ瞠目すべき水彩画が描かれるに違いない。

Gallery HANA galleryhana2006@gmail.com (11月10日まで)

「風土に生きる Ⅶ」展始まる

「Apple-2020」    F120    Tempera, Alkyd

「風土に生きるⅦ」展が11月7日(土)まで銀座、ギャラリー風で開催中。コロナの渦中ですが、元気な人は見に来てください。

いろんな意味で、今年はひとつのターニングポイント、だと感じています。作品的にはここ数年、線・面・色彩などの造形要素を明確にする意識で制作してきましたが、それだけを純化・追及するという方向性はもともと持っていないので、このあたりがひとつの成果かも知れません。

「追及」という姿勢自体がひとつの「抑制」でもあります。ひとつの方向性以外のものをできるだけそぎ落として、その結果をストイックに積み重ねていくという方法をとらざるをえないからです。

今後は、枝分かれ的に追及してきたいいくつかの方向性を再び統合していきたいと、考えています。そんなことは、実は30年前に既に無意識的にやっていたことですが、それを「意識的」に再構成しようというわけです。「総合的」ということは何でもありということにつながり、質的にどんどん甘くなる危険性をも孕んでいます。その辺をどうやって律していくのか、自分の中の美学?が問われるところです。どうなるでしょうか。