Glass apple

Glass apple (2021に加筆)

2020年にいったん完成させた作品に加筆したもの。加筆箇所はほぼアウトラインのみ。前はウルトラマリンの細い線だった。何となく納得できないまま、ほぼ1年放ったらかしになっていたが、昨日ふっと「アウトラインの細さが、存在感の無さにつながっているのではないか」と思いついた。

同じウルトラマリンで太くしてみたが、効果が弱いと感じたので思い切って黒を混ぜてみた。線の端が必要なラインからはみ出すのは、一度筆を止めた直後に無造作に再び筆を置く癖のため。水彩の時はそれでリズムをとることもあり、必ずしも悪い癖とも言い切れないが注意が必要だ。まあ、試験的な作品だからいいとしておく。

黒という絵の具は、艶があると締まった深い感じを与えるが、艶が無いと灰色に見えてしまう。水彩の場合はアクリル板を使うと黒がすごく良く見えるのはこの「艶」の効果。ここでも黒だけは艶を出してみた。「ガラスのApple」という題にしたが、そんな感じは出ただろうか。

夏の夜のベランダ

夏の夜のベランダー2


夏の夜のベランダー1

「夏の夜のベランダ」というテーマでの2枚のエスキース。1では植物がど真ん中過ぎると感じて、2で右に寄せてみた。

配色のせいもあるが、なんだか人物が隠れ、植物が前面に出ている1の方がいい感じに思える。2では「ベランダにいる人物、植物はたまたまベランダにある」という内容だが、1では「ベランダで夜景を楽しんでいる植物、そこへたまたま人間が入り込んできた(チェッ、邪魔なやつ)」という感じで、明らかに主役が入れ替わる。

もちろん1より2の方があと。時間が経ち、ある意味冷静になったぶん、常識的になったともいえる。あとの方が良くなるとは限らない。1は絵画上での「擬人法」のようでもあり、面白い。

はだかになること

チューリップ(描き始めの頃)  F6 tempera on canvas

絵の世界では「はだかになれ」と流行語のようによく言われた。かつては日本の洋画(というのも変な言い方だが)をけん引してきた美術団体の一つ、二科会では「裸まつり」と称して上野の山からビーナス(美の女神)役の女性を神輿に据えて街なかへ繰出したものらしい。この「はだか」は裸体という生モノであるが、もちろん精神的な「はだか」=「解放」の象徴である。

毎日はだかで制作しただけでなく、来客までもみな裸にしたという「説教者」のようなオジサンや、はだかで真昼の女子高校の周りを一周して「精神を鍛え」ようとした猛者?も実際に少なからずいたようだが、「はだか」になることが大事だと言われるのは絵の世界に限らない。ほぼすべての芸術領域ではよく聞かれる言葉であった(芸術以外の領域でもあるようだが)。

じつはわたしも、何度もそう言われた経験を持っている。多くの人は心を開放する意味での「はだか」より、実際に人前で裸になることの方が難しい(恥ずかしい)と考えているだろう。けれど、おそらく現実は逆で、心をさらけ出すほうが何倍も難しいとわたしは思う。人のこころは火山に似ていて、「さらけ出したい」或るものと、それを抑圧せざるを得ない理性・トラウマなどとの「摩擦熱」をマグマのように蓄えていなければ、人前に自分のこころをさらけ出すというエネルギーなど生み出せないからである。

こころを開く―はだかになるって、どういうことなんだろうか。「やりたいことをやればいい」だけじゃ、ヒトも動物であるという自明のことを再証明するだけだ。たとえば表現者なら、何を、どう、どのレベルでやりたいか、それを傍若無人にやってみる、人からどう思われようと構わない、それが「はだか」の意味だろうとは思う。けれど一方で、人は人と人との間で生きてもいる(だから人間?)。根本的な矛盾を抱えている。その矛盾の隙間に根を張るもの、それが芸術かも・・・などと考えているようじゃ、はだかなどにはなれそうもない。