発表するということ

斎藤 典久 個展より

川越・ギャラリー・ユニコンで斎藤典久さんの個展を見た。とても良い個展だった。作品が優れているかどうかは私には判らないが、少なくとも作者と作品が一致するというか、その人らしさが作品にしっかり流れていて、そういうことが私にとっての価値観であるという意味で、良い個展だと思った。

それに引き換え、私の東京・銀座で発表した作品は単なる思いつきの底の浅い、いい加減な、薄っぺらなものに見える。そして、確かに思いつきで、底が浅く、いい加減で、薄っぺらなのが私自身なのだ。そういう意味では私も言行一致だが、悪い方の言行一致ではどうしようもない。

私は最近、発表することの意味を失いかけている。おそらくこれからも、たとえ手が動かなくなっても(それがパソコンになろうと)、それが他人にどう思われようと、私は絵は描き続ける筈だ。絵を描く以上の楽しみなど、この世にあろうとは思われないから。けれど、何のために発表するのか、という問いに対する答えはそれほど明確でなくなってきた。他人に評価されたいなどとはもう考えてもいない。それより、誰に見せるつもりでもなく、無心に描いていた原点に戻りたい気持が強くなってきた。

恥ずかしながら

水彩効果

大学時代の同級生からメールが来た。展覧会を見に来るつもりだ、という。なぜだか急にうろたえる。「ヤバい、もうちょっとまともな絵を出さなくっちゃ」。でも、展覧会の一つは明後日からで、もう出品しちゃったし、もう一つだって来週月曜日から始まる。いくらジタバタしてももう遅い。

考えてみると、学生時代から私は絵を描いていたのだが、ほとんど友人たちに見せることはなかった。決して隠したり、隠れて描いたりしていたわけではないが、話題にならなかっただけなのだと思う。卒業、就職、そして多くの同級生たちがそれなりに地位や、あとに残せる資産などを作って退職するようになって、いまだに就職もせず(できず)、地位もなく、資産にいたっては就職1年生にも及ばないというオロカモノはどうしているのか、40年以上もバカの一つ覚えに描き続けている絵というのがどの程度のものなのか、気にかけてくれているのかも知れない、と思う。

たしかに、就職もせず、美大に行ったわけでもなく、ただ単に好きだというそれだけで、40年以上生きてこられたことは自分でも不思議な気もする。多分役に立たないモノ好きも、何人かは世の中にいても悪くはない、と社会が受け入れてくれたからだろう。特に努力もしなかったから、なおさらそうだとしか思えない。それなら、今さらジタバタしなくてもいいかも、とすぐ自分に都合のいいように考える。これが40年の成果です、と胸を張っては言えないが、人の物を盗んで見せるわけではないから、「これだよ」と聞こえないような小さな声で言おうと思う。

水彩効果

水彩効果

パソコンのソフトで、水彩効果を試してみた。ちょっと驚いた。

ずっと前、描画ソフトで「水彩」というのを試した時、タイムラグも大きいし、その効果もマジックインキを薄めただけという感じで、とても使えないと思い、それ以来無視していた。けれど、プロのイラストレーターたちの色の出し方などを見ていると、逆にもうコンピュータを使わないと無理だなと思うことだらけになってきた。

ほんのたまに使い、普段は死んだような状態になっているソフトに、新しいブラシを導入してみると…すごい、進化している!!使い物にならなかったのはソフトではなく、自分の頭の方だった。日進月歩のソフトだから、当時のギャップなど、あっという間に改良されたのだろう。まだ、どんなブラシがどんな効果なのか、全く把握できていないので、とりあえずはブラシを知ることだ。