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「Apple」 2019 F6  Oil on canvas

私の「Apple」の最初の登場は1980年代後半だから、少なくともすでに30年以上、中断しつつ続いている。今また新たにシリーズ化しそうな感じだが、ここらへんで言っておきたいのは、 「Apple=リンゴ」 と変換して欲しくないということ。

私はほぼ一年中、毎夕食後にリンゴを食べる。「りんご・リンゴ」は私にとって「実物」であって、単なるイメージではない。また、私はリンゴのことをふだん「Apple」とは呼ばない。だから、作品としての「Apple」 は私にとって、一つのかたちとしてのイメージ(抽象)であって、食べたりする実物の対象を描写しようとするものではない。「Apple」は「Apple」という、リンゴとは全く別物、次元の違うものだ、と考えて欲しいのである。

そう考えてもらえれば、この絵はすんなりと見たままに理解できる(はず)。全体としてはリンゴのようなかたちをしているが、よく見るとムキムキマンの男が、(マントのようでもあり、羽のようでもある「翼を持って」)飛んでいる絵が見えてくるかもしれない。それが「Apple」である。

実は、このような仕掛けの絵は世界中にずっと古い時代からあり、私もそれらを参考に、これまで何度も様々な試みを重ねてきた。けれど最近の「Apple」は(私自身の制作の中では)これまでのものとは明らかに違う意識がある。この先どうなっていくか、自分自身でも少し楽しみでもある。

Apple

「Apple」 2019 F8 Oil on canvas

ここ2ヶ月ほど、こんな絵を描き続けている。どんどんアイデアが浮かぶので、まだしばらくは続くだろう。もう一つ「種 Seed」というタイトルで、ムキムキマンの男を種の中に閉じ込めたような絵も続けている。ほとんど似たような絵なのだが、なぜかこちらはなかなかうまくいかない。

見た目は現代ふうの絵だが、描き方はあえて古典絵画の方法を採用している。つまり、グリザイユ(白黒の明暗の調子だけで下描きをすること)、次いでグラッシ(透明な色の層を薄く重ねること)と白を交互に重ねて色を深める画法のことである。現代絵画であろうと古典絵画であろうと、深く豊かな色彩表現にはこの方法が最適だと思うからだ。

私には私なりの絵画の理想像がある。そういうものを持つこと自体、絵画を限定することになるという批判はさておき、多くの画家たちもそれぞれの理想を実現すべく日々精進しているものだ、と私は思っている。そこまではいい。けれど、私の理想像には、それ自体の中に分裂的な矛盾を孕んでいて、それがここ20年も私自身を苦しめている。

今のところ、その矛盾を統合する方法には至らず、制作は矛盾の「どちらか一方を見ないことにする」ことによってのみ可能。両立を目指して、しばらくひどいうつ状態に陥った経験による。ごく最近では、それは矛盾ではなく、二つの全く異なった「それぞれの理想」と考えるべきではないか、などとも考える。赤道直下と南北両極のようなものか。もしそうならば、それを統合するということに何の意味もないのだが。

「深い」話

「飛ぶ男」2019 F10

「あの人の話は深い」などと言う、その「深い」とはどういうことなのだろうか。人の心理の奥を知っている、という意味もありそうだし、社会的なしがらみや身体と心、心と技術などとの微妙な機微をよく知っているという意味なども含まれるかもしれない。

要するに「1+1=2 」のように明快ではないが、どこかで誰もが納得できる真理につながっている感覚がある。これが「深い」話の第一条件だろう。けれど「混迷」もまた、よく似た感覚だ。あるいは「混迷」と思われた方が真理である場合だってあるかもしれない。それを私たちはどうやって嗅ぎ分けていけばいいのだろうか。

絵画教室で「ヴァリエーション」の話をした。一つのモチーフについて、幾つもの表現(法)を試みるということだ。「思考回路の経験値を増やす」と少し学校風な説明をしてしまった。経験値を増やす、たくさんの経験をすることは時間(時には体力も)もお金もかかり、書物などで勉強するより非効率で、頭の悪い人のやり方のように思う人がいるが、そうではないと思う。

偉人の一生を一冊の本で読むこと、60年、70年とかけて積み重ねた(人生)経験とせいぜい数日の読書とがイコールな筈はない。しかし、もちろん読書が無意味な筈はなく、自分の経験値が大きいほど読書から得られるものも大きいと感じるのは普通のことだ。絵画でも、制作経験が有ると無いでは、他人の作品を前にした時の問題意識が違う。「自分はこうしてきた」という経験と、無意識のうちに対照させて見るからに違いない。その対照上のずれが「なぜ?」につながり、その疑問への解決がまた自分の経験になる。そうした積み重ねが、他人である作者の内側からものを見る感覚につながり、他人である作者の経験を取り込むことにつながっていくと考えられる。

少し脱線した。結論から言えば、絵画を「深く」するには「ヴァリエーション」が非常に効果的だということだ。思考回路の経験値を増やすということは視点の多様化(単なる知織化の可能性もあるが)でもあり、その中から一つを選んで実際にやってみるという経験、決断がまた次の視点への契機になっていく。その巡り自体を「深化」と呼ぶのではないか、と私は考えているのである。