デザインと絵画のあいだ

Apple and a book (制作中 2021)

「絵」と一口にいっても、どんな人が言うかによって意味が異なることがある。テレビ関係の人にとっては画面=絵だし、印刷会社の人にとっては写真=絵だったりする。デザイナーにとってはデザイン=絵だろうが、絵の人(ファイン・アートの人)にとっては絵=デザインではない、という人が結構いた。かつてはわたしもその一人だった。

ファイン・アートとは芸術性それ自体を目的とするアートで、日本語では「芸術」を指す。純粋芸術ともいわれる。それに対してデザインやイラストなどは応用芸術、もしくはコマーシャル・アートなどと呼ばれることがある、などと解説される。「芸術至上主義者」から見ると、応用芸術、商業芸術などは作品が作家本位(自発的)ではなく、クライアントの都合で色もかたちも制限されたりするため(純粋ではない)、芸術性において一段下と見る風潮があった。今も絵画団体の中にはこうした考え方の人は少なくないと思う。

現代絵画のトップ・スターの一人であるゲルハルト・リヒターなどは「わたしにとって、見えるものはすべて絵画である」と言い切り、デザインどころか単純にガラスに映ったものまで「絵画」と呼んでいる。「芸術性」という曖昧な物差しで価値を測り、古典の「芸術家」たちの多くがクライアントの注文に応じて絵を描いていた歴史などを無視して、純粋芸術云々だけを語るのは一種の尊大主義なのかもしれないなどと思うようになって、わたしはイラストもデザインも絵画も「良ければそれでいい」と考えるようになった。「良ければ」という意味も「上手・巧拙」から「知的、感覚的、詩的」という方向により重きを置くようになった。

絵画やデザインといわず、「視覚表現」と枠を少し広げて考える。「いや、芸術はただの視覚表現ではない」という意見はここでは措いておこう。視覚表現の基本要素は「線」「かたち」「色」である(「点」は線に含み、「かたち」は「面」を含む)。素材感(テクスチャ)もひとつの要素として分けてもいいが、ここでは「面」の中に粗い面、すべすべした面などの触覚的要素がある、と解釈しておく。この、「線」「かたち」「色」をどう使って「知的・感覚的・詩的」な視覚表現をするか。いま現在のわたしにとっては、絵とデザインの違いなどより興味深く、面白く感じています。

CGスケッチ

「マイ・カメラ」(CGスケッチ)  30 Aug 2021

30秒のコマ送り動画で、動画撮影用にセットしたマイ・カメラのCGスケッチ。実際にかかった時間は2時間弱。意外に時間かかりました。スケッチブックに鉛筆+ペンなどで描いた場合と比べ、どちらが早いかは「微妙」。早さを別にすればそれぞれの利点は明らか。CGは他の媒体に利用できるし、スケッチブックなら確実に手もとに在る。

それなりに一生懸命描いているとはいえ、後で見直したときに、ここはもう少し描き込みたいとかあるのが普通だと思う。そんなとき、後からいくらでも描きなおし、加筆可能なのがCGのすごいところ。でも、CGで描いたことのない人には、たぶんその「すごさ」がたぶん伝わらない。実際に CGスケッチの体験をしてみるしかないが、それなりに高価でもあるし、パソコンに苦手意識のある人(わたしもだ)には、抵抗感もあることは理解できる。

このスケッチは、右側窓からの自然光。スタートは遅く、午後3時ちょうど。ライトは左なので、スケッチを終えるまで点灯できない(光線方向が真逆になる)。夕方の自然光の減衰を考えると、かなり急ぎ目で描かなくてはならない(明日にすればいいだけなのだが)。「日没は6時30分ちょっと前」と頭にタイマーをセットする。

最初の3秒間。「初めは大雑把に全体をくくるんだな」と見て貰えれば嬉しい。

「思いつき」というか

Apple and a book 2021

最近、思いつきだけで絵が描けなくなった。以前は絵の具をただ塗りたくっているうちに絵が勝手に生まれてきた。何かが見えてくるまで、塗りたくり、絵の具が厚くなると削ったり、洗い流したりして、何かが生まれてくるまで待っている。時間がかかることもあれば、次々とイメージ浮かび、キャンバスの数が足りなくなることもある。

突然、画面に人物や風景や静物などの断片がヒョイと見えてくる。それをつかまえて描き始めるから、ゴールのイメージなどあらかじめ想定できない。モノがすっかり姿を現すと、そこで初めて「このあとどうしようか」と、ゴールのことを考える。場合によっては出現した人物に小さくなってもらったり、右や左に移動してもらわなければならない。とにかく、何を描くのか自分でもわからない、そういうめちゃくちゃな描き方だが、聞いてみるとそういうタイプの人は案外いる。30年くらいはそうやって描いてきた。

高名な画家の死後、遺されたスケッチやデッサンなどを示しながら「こんなに努力していたのです」的な解説を今でも見かける。それはそれでいいのだが、「そういう努力をしないのはダメだ」的な「教訓」とすることには異議がある。運慶とミケランジェロがたまたま同じことを言っている。「木(石)の中にすでに彫刻が埋まっている。わたしはそれを掘り出すだけだ」。それを読んだとき、わたしも全く同じ感覚を持っていたことに驚いた。絵の具を塗りたくるとき、塗るというより絵の具で表面を掘り、削っている感覚だった。

いまはそういう描き方はしていない、というより出来なくなった。最初に「○○を描こう」と思う。そしてその中の3つほどの要素に優先順位をつける。1はこれが無いとその絵に意味がなくなるというほど重要なもの、3はなくてもいいが、あるとふくらみがあるかな、という現実的な「欲」。2はその中間。だから、下描きもするしエスキースもする。かつてはそういうものは全くしなかったから、ほぼ別人になった感じがする。けれど、エスキース通りにできた絵は「死んだ絵」になってしまう。ひらめきというか、思いつきというか、それが無いと、絵の心臓が動き出さない。それが降りてくる瞬間を待つのは今も変わらない。