哀愁

          グラウンド  水彩 2010年頃?

「青いカモメ絵画教室」による「青いカモメの会絵画展」が9月14日から始まる(19日まで)。その準備のためもあって、あちこち資料を移動したりするうちに、ヒョイと開いたスケッチブックの1ページ目にこの絵があった。するするっとその時の情景が目の前に浮かんでくる。

もう何年も見ていない、今はさいたま市になった岩槻の市営野球場だ。岩槻の絵画教室の人たちと、この球場のある公園で野外スケッチをしたときの一枚。ほんの数年前のような気がするが、わたしも含め、みんな若かったように思い出す。誰がどんな絵を描いていたのかも、およそは覚えている。

秋だった。何度かここでもスケッチ会をやったが、描いたのは秋の記憶しかない。天気の悪い日は出かけなかっただけのことだろうが、眩しいばかりにイチョウの葉が輝き、足元に深々と積もる葉を蹴飛ばしながら描いたっけ。そういう元気で行動的ななかに、ふと感じた哀愁の気分。それがこの構図になった。

耳を澄まして


         Apple and a book    2021 tempera

この作品は一応完成としたけれど、未完成かもしれない、そんな気分の絵です。本(画面上部の見開きのようなかたちになっているところ。本らしく見えないかもしれない)のページ部分を、最初はある程度白く塗りつぶすつもりでしたが、ここまで来て、この「未完成状態」のまま「完成」でいいのではないか、という気になったのです。

「描き過ぎ」というのはわたしにはよくある。特に時間がない時。時間のせいで薄っぺらいと思われたくないのか、かえって普段より描き込んでしまうことがままある。時間があるときは何度も中断して頭を切り替えることができる。コーヒーなど飲みながら、十分な距離を取って何度も眺めることができる。焦って描いてはいけないのです。

でも、あまりに単純じゃないでしょうか。暗めの緑の、似たような彩度だけで描くことがひとつの狙いなので、単純さはその結果でもあるのですが、絵である以上、それでもなにか心に訴える感じが欲しいのです。この絵ではビリジャン(青緑)の大きな平面にそれがあればいいのですが。

しばらく放っておくことにします。大事なことがあれば、向こうからまたなにか呼びかけてくるものです。聴き逃しや聞き違いをしないように耳を澄まし、静かに眺めながら待つ絵でしょうか。

失敗目前

Apple by a book (継続中)

バリエーション

今日は昨日と一転して、やることなすことが逆目。テンペラメディウムを作っても、30分もしないうちにひっくり返し、半分もこぼしてしまった。他にも何となく無駄な動きが多かった。こんな日はさっと切り上げて他のことをした方がいいのだが、もう少し先で何とかなりそうな気がして筆を擱くことができない。切り替えの下手なタイプ。

上は昨日の続き。滑落しそうにふらふらしながら痩せ尾根の稜線を歩いている感じがする。右も左も谷底へ真っ逆さまで、まっすぐは進めない。うまく切り抜けられるかどうか、半分は運、半分は冷静な判断。今のところ、一歩引いて、いったん同系の色でまとめるという経験重視でいくことにしたらしい。

同時進行している3点のバリエーション。右の絵では赤、黄を効果的に使うつもりだったが、説明臭さが鼻についてきたのだった。バリエーションがあると相互に比較しながら進んでいけるのがいい。

失敗を怖がらないこと。絵では谷底へ落ちても死ぬことはない。時間はもったいないが、絵を描くということはそういうことなのだと、自分に言い聞かせる。