コーヒーブレーク

コーヒーセット

前回のシュークリームには全然満足できなかったので、再びシュークリームに挑戦。今回も本当の狙いは透明パックの表現。それとシュークリームの“クリーム”部分。オマケで毎日使っているコーヒーカップも。愛用というわけでもないが、壊れないから(笑い)。もう何十年も使っているかもしれない。シュークリームはもちろん新しいのです。描き終わったとたんに食べられた。

前にも書いたが、難しいのは「正確な楕円(円)」。ある程度納得のいくかたちにするには、何度も上下左右に動かして歪みをチェックしなければならない。そこに充分な時間をかけることが一つのポイントかな。先日のシュークリームはとりあえず試作だったので3時間近くで済ましたが、今回は7時間もかかっている。意外に時間かかる。

こういうものは近くで描くので、眼が悪くなってきてもまあまあ描けるが、視力が弱いと風景画が難しいと思う。車を運転するときの視界に似ているから。

ソル・レオーネ

ソル・レオーネ

イタリアの缶詰らしい。日本語のラベルがあるから日本向けなのだろう。食べたことが無いので味は判らないが、料理好きな人なら使えるのではないか。我が家では料理好きな人は誰もいないから使うことはなさそう。

なぜ買ったかというと、ただ単にスケッチに向くと思っただけ。缶詰や缶ビール、缶コーラなどこれまでにも何度も描いているが、やはりこれも難しいと感じた。難しさのモトは何と言っても「正確な楕円形」が描けないこと。こうやってみると、やっぱり歪んでいるのが判る。

満々中に対象物を置かないかぎり、対象物と左右の眼との距離はそれぞれ異なる。わたしが右利きのせいか、左側の円弧はまあまあ一発で描けるのだが、右側は描きづらい。上から下という動作と、左から右、そして反転という動作が重なるからだと考えているが、要するに右側の円弧がうまく描けない。誰にでもこういう癖のようなものがあり、あって当然だが、こういう工場生産で出来るものはぴったり左右対称でないと説得力がない。だから何度も逆さに見たりして、歪みを修正するのだが、それでもこんなふうに歪んでしまう。

展覧会の終わりと美術展のオワリ 

会場風景

銀座・ギャルリー志門でのグループ展「風土に生きるⅧ」展が16日終了しました。コロナ下、わざわざおいで下さった方ありがとうございます。わざわざお電話、お葉書など下さった方、ありがとうございます。

展覧会の期間中、六本木の国立新美術館で二紀展、独立展や前々回紹介した個展など、いくつかの個展、グループ展も廻ってみた。どれも力いっぱい頑張っている。そこに注がれる膨大なエネルギー、素材の量、資金。そして多くのあらゆる種類の犠牲。そして得られる小さな自己満足程度の喜びと、僥倖のような、ほとんど社会性の無い内輪だけの称賛。「健気」という以上にふさわしい言葉があるだろうか。

「わたしの個人的美術史では、美術の歴史はすでに終わっている」とずっと前に書いた。あらためてそのことを確認した。誰もが絵を描かなくなるという意味ではない。それどころか10年後には絵を描くことはもっと手軽になり、誰もが暇つぶしに描くようにも思う。終わっている、のは「もう付け加えることがない」つまり、美術史的には巻末まで来たということと、(少なくとも現代の日本的な)美術展という形式のこと。

少なくとも現代日本の美術展には個人的な犠牲(負担ではなく、あえて「犠牲」というほどそれ)が大きすぎる。日本独自の団体展という制度は、その犠牲の量を人数で割って小さくするための方法論であり、作家どうしが互いの傷を舐めあって生きる美術長屋もである。作家がのびのびと作りたいものを作り、自由に発表するという理想からは遠すぎる。作家になるということは社会から逸脱するという覚悟、社会的自殺の覚悟が要る、といっても過言ではない。家族まで巻き添えにして、たまさか運よく流行作家になれた人だけを見て、その犠牲的精神を格好いいと思うのは時代錯誤であり、それを強いる似たような社会的抑圧(たとえば女性の社会的地位)の風土と通底する。

いまはインターネットがある。インターネットがそれらの問題を一挙に解決するなどという妄想は、さすがに妄想家を自認するわたしも持たないが、最低でもその一部を軽減してくれる程度の力はすでに持っている。創作の厳しさ(努力)と身体的、社会的犠牲とを混同してはならない。創作の厳しさは、自分自身が解放される場所からでなけれ乗り越えられないと思うからである。