「風土に生きる Ⅶ」展始まる

「Apple-2020」    F120    Tempera, Alkyd

「風土に生きるⅦ」展が11月7日(土)まで銀座、ギャラリー風で開催中。コロナの渦中ですが、元気な人は見に来てください。

いろんな意味で、今年はひとつのターニングポイント、だと感じています。作品的にはここ数年、線・面・色彩などの造形要素を明確にする意識で制作してきましたが、それだけを純化・追及するという方向性はもともと持っていないので、このあたりがひとつの成果かも知れません。

「追及」という姿勢自体がひとつの「抑制」でもあります。ひとつの方向性以外のものをできるだけそぎ落として、その結果をストイックに積み重ねていくという方法をとらざるをえないからです。

今後は、枝分かれ的に追及してきたいいくつかの方向性を再び統合していきたいと、考えています。そんなことは、実は30年前に既に無意識的にやっていたことですが、それを「意識的」に再構成しようというわけです。「総合的」ということは何でもありということにつながり、質的にどんどん甘くなる危険性をも孕んでいます。その辺をどうやって律していくのか、自分の中の美学?が問われるところです。どうなるでしょうか。

やっぱり、基本は描くことだ

「 Apple Rain 」  ペンのスケッチにパソコンで着色

今年は「プチ断捨離」をした。暑い中、自粛ムードで出かけることが少なくなり、部屋の狭さ(使わないものの多さ)を痛感したからだ(そのくせ、数日後には「アレ、なんで捨てちゃったかなー」と後悔したり)。その過程で、昔買い込んでおいた安物の紙類があちこちから現れてきた。

小さい頃は、落書きをする紙が全然足りなかった。算数、国語のノートは周囲どころか、表紙裏、挙げ句は本体部分までの落書きで、その隙間に授業のなにかが見えていた。教科書の行間にも描き、クラスの子のノートにも描き、テスト中にもその用紙の裏に描いた。ときどき母は近所の家から捨てるような紙を貰いに回ってくれた。

だから、何にも描いていない紙を捨てるのは、私には相当の罪悪感がある。「高野聖」の作者、泉鏡花が、文字の書いてあるものを捨てるのは、それがなんであれ嫌がった、というのをどこかで読んだ記憶があり、比較は僭越だが深く共鳴したのを覚えている。

そんなわけで、「何かを描いてから」捨てるつもりで、それらの紙にスケッチ、クロッキーを描き始めた。すると、一本、線を引くたびになにかが目覚めるような気持ちになるのだった。

描けば良いってもんじゃない。が、これはもう一種の病気、中毒あるいはすでに私の持病なのだ、と感じた。描かなければ死んでしまう、描くことだけが効能ある薬、と改めて思う。「毒をくらわば皿まで」。最後まで薬は手放せない。

新しいこと始めよう

「 Apple 2020」  2020 Tempera,Aqyla on canvas

「青いカモメ展」は20日、コロナ下無事(?)終了。私は未完成作品を出品してしまったので、遅ればせながらこの場で完成作を出品します(あまり変わりませんが)。

私的には、「Apple」のシリーズともいえる作品をずっと続けてきました。これが一つの結果と言うほどのものはありませんが、そろそろこれまでの試行錯誤を整理して、総合的な作品を目指していこうと、この作品の前後から考えていました。

今年いっぱいはこのような作品を見る機会が多いと思いますが、すでにいくつかの小品で総合化を試みていますので、それらの試作、失敗作もこれから登場するはずです。期待?してください。

青いカモメ展に戻りますが、「失敗すること」の大切さを今回も感じました。「面白い」と感じられた作品はどれも「失敗と紙一重」か、「失敗の中に面白い試みがある」「失敗とも気づかない」ような作品ばかりでした。多(少)の失敗を認める大らかさと、自分本位の好奇心が「失敗の原因」ですが、そういう意味では、失敗こそ、その人らしさの原点であると私は考えています。

絵画史上のすべての名作は、「それ以前の名作」の前には「大失敗作」ばかりです。絵画史とは「失敗史」そのものなのです。バロックの絵画は、今でこそ絵画の黄金時代と呼ばれていますが、「バロック」という言葉自体、「野蛮な」「奇妙な」という意味を持つ語です。当時は「変な絵だなー」と思われていたのです。

「青いカモメ展」では、もっと変な絵(もちろん自分から変だなどとは思わないでしょうが)をいっぱい描きましょう。新しい絵を描きましょう。でも、「新しい」とは何でしょうか。それは自分にとって「普通で、自然で、面白い」ということです。ただし、「普通」「自然」という意味が、他人の決めた尺度ではなく、あくまで「自分にとって」ということが条件です。ことばは簡単そうですが、これを実現することは、決してたやすくはありません。

ここで「高齢者」という言葉を開き直り的に使いましょう。もう先が長くない。なんだかんだと言いながら、ここまでしぶとく生きてきた。今さら、この先も他人目線の絵を描いていたら、死んでも死に切れないのではありませんか?お孫さんや、ひ孫さんをかわいく描いてあげたって、どうせ義理でしか喜んでくれません。それより、新星爆発じゃないけれど、もう一踏ん張りして、バクハツして死んだ方が楽しくないでしょうか?きっと子どもさんも、お孫さんも「じっちゃん、ばっちゃん、やりたいことやって死んだわ。うらやましー」って、尊敬すると思いますけど。