晨春会展を終えて

青いカモメ   紙・アキーラ

春会展は昨日6日(日)午後五時で終了。コロナ禍下、躊躇はしたが開催して良かったと思っています。ご来場の皆さん、ありがとうございました。来場できなかったけれど、応援してくださった皆さん、ありがとうございました。厳しい意見を下さった皆さん、ありがとうございました。それらの励ましを得て、また次回展への力にしたいと思います。

東京・六本木の国立新美術館では春の美術展が軒並み、作品は全国から搬入・審査し、陳列までして開場しないという「異常事態」が続いていました。コロナを恐れるのは自然だけれど、「(正確な知識で)正しく恐れる」という、過剰反応しないようキャンペーンをしていたのは国や都、県などの自治体だったはずです。それが突然開催を中止させること自体、一貫した論理性もなく、ただ目の前の状況次第で、行き当たりばったりの対応をとってきたということです。そういう意味で、わたしたちが冷静に判断し開催したのは、論理的にも明快であったと考えています。

観客が少ないのは予想済通り。集計は聞きそびれましたが、例年の三分の一程度でしょう。観客のほとんどは高齢者。出品者のほとんどが高齢者で、各自がその知り合いにDMを出すのですからそれも当然ですが、5年後を考えると、この展覧会もいろんな意味で瀬戸際に立っていると考えざるを得ません。

入場者数の減少は必ずしもコロナのせいばかりではないでしょう。コロナが収まれば回復するかと問えば、わたしの答えはノーです。展覧会をビデオで見ることができるなら、今回会場に来て下さった方々でもそうするのではないでしょうか。ビデオで流すことができれば、年齢や健康状態、住んでいる場所に関わりなく見てもらえるチャンスがあります(膨大な数のビデオの中からどうやって探してもらうのかはさらに問題ですが)。先にも書きましたが、画像や映像で見るのと実物を見ることとは別物ですが、見る見ないでいえば、いずれにせよ見てもらう方がいいに決まっています。若い人たちはとっくの昔にそう考え、あらゆるものをそうした媒体に載せて発信しています。わたしたち(だけでなく多くの)の既存の展覧会は遅れ過ぎているのです。

晨春会はなぜそんなに遅れているのでしょうか。ひとことでいえば、若い人がメンバーにいないからです。なぜメンバーにならないのか、あるいはスカウトできないのか。若い人たちになぜ魅力がないのか。どうやったら魅力を作り出せるのか。そういったことをあまり考えてきませんでした。来年も晨春会展はやるつもりです。けれど5年先はあまり見えてきません。ここ数年同じことを考えているのですが、行動ができませんでした。来年の今頃も、また同じことを考えていなければいいなあ。—海へ行きたくなった。

晨春会展―2

Gold-medalist in Olympic 2021 ( oil on canvas)

晨春会展が始まり、初日、2日目と連続で会場当番をした。観客は閑散だが、わざわざこんな時期に来てくれるだけあって、ほとんどの人が熱心に見てくれる。ありがたいことだ。「何が何でも見たいと思った」という人は、朝から晩までコロナ、コロナでくさくさしていた気分がスカッとしたといって帰っていった。それこそわたしたちの望んでいたこと。

せっかくコロナを忘れに来たのに、消毒、来場者カードの記入など「また、コロナか」と腹を立てた人もいると聞いた。その人の気持ちもよく判る気がする。他のいろんなイベント会場でのコロナ対策を参考に、わたしたちもそれにかなり気を遣った。コロナそのものより、「対策をしていない!」と細かく糾弾する「自粛警察」の巡回の方が怖かったのが本音だが。日本にはこの手の「警察」がやたらと多い。このブログは10年前の東日本大震災の直後に始めたが、当時も「節電警察」という語が巷に聞かれ、そのことについて書いている。今とまったく変わるところがない。

午後4時を過ぎるとほとんど人は来ない。会場をぶらぶらしながら自分の絵をじっと見る。自分の絵の後ろにある、自分自身のの制作風景を見る。そして10年前、30年前の自分と数年後の自分の制作風景を重ねて見る。よく見れば、1枚の絵にはそういうことが描かれている。会場のどの作品もそんな風景を持っている。メンバーはほぼ一日中冗談しか言わないが、誰もがそれぞれの風景を自分自身と重ねて見ている。そういうメンバーでなければ35年も続くわけはない。この会は特別な会なのだ。

ワクチン接種が進めば、来年の今頃はコロナはもう記憶の彼方になるだろう。大震災の時の節電騒ぎをもうほとんど忘れているように。でも、本当はわたしたちは深いところで傷ついている。あの時も絵を描いたり、音楽や芝居をやっている場合かと世間には冷たい目で見られ、実際そのような仕打ちをされた。大衆とはそういうものだ。芸術はそういう大衆に、とりあえずお茶をどうぞ、という仕事だ。その一杯で心の変化が起こることもあるだろう。それが芸術だ、とも会場をぶらつきながら考える。

晨春会(しんしゅんかい)展

Apple on the book 2021 F100 tempera

明日から、晨春会展が始まる。6月6日(日)17:00まで。昨年はコロナ禍を考慮して、東日本大震災の時でさえ開催してきた展覧会を初めて中止した。今年も中止するかどうか議論したが、いま、活動を継続すること自体が意義あるとして開催することにした。

ネットだけで公開することもできる。「見るだけ」なら写真の解像度次第では、肉眼より詳しく見ることも可能である。けれど、実物をその会場で見るのは、それらとはかなり違って見える。いや、感じると言った方が近い。それは簡単な理由からで、会場には会場の空気があるからである。会場の空気とは、作者と何かを共有する空気ということになろうか。会場に作者がいるから、ということではない。レオナルドの絵を画集で見ても凄さは感じるが、実物を生の眼で見ると、なぜか時空を超えて作者の息吹をほんの少しだが感じるのである。それが「空気」。同時代の作家なら、それがもっと強く感じられるのは当然である。

コロナ禍で多くの美術展、音楽会、芝居などが中止され、美術館、劇場、ホールも休館させられるなど、芸術が「不要不急」の代表のように扱われてしまっている。こういういい方は本来したくないのだが、あえて言えば、芸術こそ一番底辺で現代の社会を支えるものではないのか、ということ。会社員が通勤して、工場や会社を動かすことが現代社会の骨格であることに異論はない。けれど働く会社員にとっては、本物の歯車にされてしまっては働く意欲そのものが萎えてしまう。自分たちの子どもをただの歯車に育てたくもない。

「作品に出合って稲妻に打たれたように」感じたことのある人はどのくらいいるだろうか。きわめて少数に違いないが、そのことの意義は小さくなく、そのチャンスは多くはない。いわば一期一会。その機会を求めに行こうとすることが「不要不急」などであるはずはない、というのがわたしの「遠吠え」である。カッコつけたが、わたしの絵などわざわざ会場へ見に行くほどの価値もないという人のために、この絵を掲げてみる。