夏の夜のベランダ

夏の夜のベランダー2


夏の夜のベランダー1

「夏の夜のベランダ」というテーマでの2枚のエスキース。1では植物がど真ん中過ぎると感じて、2で右に寄せてみた。

配色のせいもあるが、なんだか人物が隠れ、植物が前面に出ている1の方がいい感じに思える。2では「ベランダにいる人物、植物はたまたまベランダにある」という内容だが、1では「ベランダで夜景を楽しんでいる植物、そこへたまたま人間が入り込んできた(チェッ、邪魔なやつ)」という感じで、明らかに主役が入れ替わる。

もちろん1より2の方があと。時間が経ち、ある意味冷静になったぶん、常識的になったともいえる。あとの方が良くなるとは限らない。1は絵画上での「擬人法」のようでもあり、面白い。

はだかになること

チューリップ(描き始めの頃)  F6 tempera on canvas

絵の世界では「はだかになれ」と流行語のようによく言われた。かつては日本の洋画(というのも変な言い方だが)をけん引してきた美術団体の一つ、二科会では「裸まつり」と称して上野の山からビーナス(美の女神)役の女性を神輿に据えて街なかへ繰出したものらしい。この「はだか」は裸体という生モノであるが、もちろん精神的な「はだか」=「解放」の象徴である。

毎日はだかで制作しただけでなく、来客までもみな裸にしたという「説教者」のようなオジサンや、はだかで真昼の女子高校の周りを一周して「精神を鍛え」ようとした猛者?も実際に少なからずいたようだが、「はだか」になることが大事だと言われるのは絵の世界に限らない。ほぼすべての芸術領域ではよく聞かれる言葉であった(芸術以外の領域でもあるようだが)。

じつはわたしも、何度もそう言われた経験を持っている。多くの人は心を開放する意味での「はだか」より、実際に人前で裸になることの方が難しい(恥ずかしい)と考えているだろう。けれど、おそらく現実は逆で、心をさらけ出すほうが何倍も難しいとわたしは思う。人のこころは火山に似ていて、「さらけ出したい」或るものと、それを抑圧せざるを得ない理性・トラウマなどとの「摩擦熱」をマグマのように蓄えていなければ、人前に自分のこころをさらけ出すというエネルギーなど生み出せないからである。

こころを開く―はだかになるって、どういうことなんだろうか。「やりたいことをやればいい」だけじゃ、ヒトも動物であるという自明のことを再証明するだけだ。たとえば表現者なら、何を、どう、どのレベルでやりたいか、それを傍若無人にやってみる、人からどう思われようと構わない、それが「はだか」の意味だろうとは思う。けれど一方で、人は人と人との間で生きてもいる(だから人間?)。根本的な矛盾を抱えている。その矛盾の隙間に根を張るもの、それが芸術かも・・・などと考えているようじゃ、はだかなどにはなれそうもない。

CGスケッチ

Apple on the note  CG

CGスケッチ、という単語があるかどうかは知らないが、ごく最近のわたしはなるべくCGでスケッチするよう意識している。鉛筆が紙にこすれていく手触り感など、ひどく官能的でついそちらを使いたくなるが、ぐっと踏みとどまる。

スケッチだから目の前には対象物がある。紙のスケッチブックと同じように描いていく。ペンとかブラシとかの選択肢がめちゃくちゃ広いが、使うのが何となく手触り感のあるブラシに偏りがちなのは、普段から実物をつかっているせいだろう。わたしはこれを経験からくる利点と考えるが、ある人はそれは欠点だという。実作の経験がCGでの可能性を逆に狭める。なるほど。

タブレットは確かに多機能で、きわめて便利であるが、一番の難点は小さいこと。1mサイズで描きたいときでも、せいぜい20㎝程度の中で描くしかない。拡大すればいくらでも大きく描けるとうたわれているが、具体的なサイズの違いは身体の使い方からして全く別次元の問題だ。たとえば大きな画面では立って描く。そして腕を大きく使って描くが、タブレットではそんなことはあり得ない。

けれど、その難点?こそ、タブレットのタブレットたる所以であるのだから、わたしにとっては甘辛い。そのうえ、紙のスケッチではあとでそれを写真やスキャンしてパソコンに取り込み加工してきたが、CGスケッチではそれが同時進行である。ひと手間もふた手間も短い。しかも完全にデータ化され、どのような媒体にも横展開が容易である。したがって使わないという選択はもったいなさ過ぎる。—でもなあ、紙に描くのが気持ちいいなら、それがいいんじゃないか—1枚より100枚、1万枚の方がいいと考えるのは、その方が「知識化」されやすいからだろう。芸術の秘密は、知識化されることでかえって失われるものもあるんじゃないか—悪魔がいつも耳元で囁く。